言葉と思考・観たもの感じたもの🎹🌼🌿🌷🐦✨

演劇・映画・音楽を観た感想を書いてます。日記のような思考の記録もあります。

04.映画「アネット」


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監督:レオス・カラックス

脚本:ラッセル・メイル、ロン・メイル、レオス・カラックス

音楽:スパークス

出演:アダム・ドライバーマリオン・コティヤール、サイモン・ヘルバーク

 

※この先、詳しい内容を含みます。

 

 

スパークスのアルバム「アネット」を原案に描かれるヘンリーとアンの二人のロマンスと新しい命アネットの物語。

コメディを生業とするヘンリー(アダム・ドライバー)オペラのソプラノ歌手としてその身を舞台に捧げるアン(マリオン・コティヤール)ヘンリーはコメディアンとしてステージに立ち観客を笑わせる。アンは美しい歌声で観客を魅了し舞台の上で死んでいく。まるで正反対の場所にいるかのように見える二人の共通点、それは歌うこと。やがて恋の物語は新しい命アネットを授かる。

 

美しい音楽

印象に残る二人の愛の歌

ラララララ〜♪ララララララ〜♪

二人の重なる声が、旋律が美しい。

どこか危うさと糸の上を歩いているような不安定さもメロディの中から感じられて。このメロディを聴いている内に私はアネットの世界へと誘われてました。

前半は二人のロマンスが描かれていて。アダムドライバーの甘い声の響き。アンの高音と舞台上での孤独。二人のお互いに惹かれ合う姿。前半の美しさから一転、後半のヘンリーが持つ危うさと止められない進んでいく現実へのとまどいと弱さ。全編を通しすべての音楽を創っているのはスパークス。前半は長調、後半は短調で私にはこの映画自体がひとつの音楽のように感じられました。

 

色々な視点で語りたいことが山程あって、そのくらい私にとってすごい映画でした。すごく盛り沢山の内容で。まず音楽が美しかったです。絵の構図の強さと魅せ方が好きでした。映画を縦横無尽に飛び回っているようなすごさがありました。魅せ方が多彩で緻密で大胆で美しい。そしてアダム・ドライバーが すごかったです。アダムは映画の役に拠って中に入っている魂が違う人なんじゃないかって思わずにはいられないくらい私が今まで観た作品のどのアダムとも違う人で。ヘンリーという魂を持った人でした。私の感覚で、画面の中へと引き込む役者と、画面から出てくる役者がいるのですが。アダムは画面から飛び出してくる役者なんだと改めて感じました。3Dとかではなく、私が受け取る感覚なのですが、アダムはスクリーンからこちら側に飛び出してきてました。

 

息をするな。と観客に呼びかける前説のアナウンスが流れステージの幕が上がる。フードを目深にかぶりシャドウボクシングをしているヘンリーはまるでダークヒーローの様で観客に大人気。冒頭のアナウンスの仕掛けによって映画「アネット」を観にきたお客さんの私は、ヘンリーのコメディショーを観に来たお客さんの視点となって物語が始まっていきます。

長回しで撮影されたというこの冒頭からの一連の部分はとにかく痺れました!かっこいいんです。歩いてくるひとりひとりが何気ない仕草やポーズがかっこよくて。音楽と共に一気に引き込まれました。わくわくして心が躍動しました。最初のここだけで惚れてしまうくらい素敵で。かっこいいんだよなぁ。

 

ヘンリーとアンはデートの度に、あらゆる場面で歌うのですが。

(一番最後に乗せたGINZAのインタビューによると、二人の歌は吹き替えではなくほとんどがそのシーンで実際に歌っているらしい!)その歌と二人の愛の風景との魅せ方にカラックスのセンスを感じさせられました。

 

二人乗りでヘンリーのバイクで帰るシーンで、スクリーンに写る映像からはバイクの風を切っているスピード感が伝わってくるのですが。そこに二人の歌声が聴こえる。リアルであれば風を切っているあのバイクのスピードの中ではたぶん歌えない状況で(撮影ではもしかしたら実際に歌っているのかも…)その風を切って爆速で走るバイクの画と二人の甘い愛の掛け合いの歌がすごくギャップがあってだけどスクリーンの中で共存していて。観ている私は体感としてバイクの風を切ったスピードを感じていて、そこにテンポのゆったりとした甘い歌声が聴こえてきて。バイクの爆速スピード感と二人の甘い歌声というその別の感覚が同時に混じってくるのが新しい感覚で、観ていてすごく面白かったです。

 

もうひとつリアルでは絶対ありえないところで二人の愛の掛け合いで歌っているところがあるのですが。このもうひとつのシーンは、歌が二人の胸の内、愛を表現しているわけなのですが。このシーンは他に誰も真似出来ないんじゃないかって感じました。今までの常識を覆すと言っても過言ではないシーンでした。見てる方はなんだかすごく不思議な感覚になりました。これまた私は初めて感じる感覚でした。

 

他にも絶対これ笑っちゃうでしょっていう面白いシーンがあるのですが。シーンの中で起こっていることがクレイジーでかつ複数もの要素が交わっているため面白いんだけど、その起こっている状況を把握するのに私は精一杯で。おお、これはどうなっているんだ!?なんだこれは〜〜〜!!という連続でした。

 

美しさの描き方が魅力的でした。何度も挟まれるオペラの舞台のシーンで、アンが孤独に舞台の上に立ち歌っている様。そして最後に死んでいく役を演じるアン。そんなアンを袖から見つめるヘンリー。ヘンリーは、アンがその生命を懸けて演じる姿、歌、死への魅力にとりつかれたように魔力に取り憑かれたようにアンを見つめていて。舞台上のアンを観てヘンリーは恋に落ちたのだと感じました。そのヘンリーの表情というか、体の中から沸き起こってくる感情をアダムが表現していてすごいのです。

 

物語を分かつ大事なシーン。そこには必ず歌があって、この映画が歌とともに進んでいくことに違和感がなくてとてもすんなりと受け止めて観ている自分がいました。

 

大嵐の夜。小さな船上での思わぬアンとヘンリーのダンス。ヘンリーの狂ってる感じがダンスに現れていて凄かったです。翻弄されるアンが必死にヘンリーを止めようとするけれども、彼は楽しそうでもあってもう止められないところにいるのを感じました。

 

波すらも踊っているようで、嵐の風が歌っているようで、遠心力と歪み。月の光に照らされたアネットと高く響く美しい歌声。絵画的なそのあまりの美しさに私は引き込まれました。ヘンリーの背中越しに見える景色。背中で語るアダムがまた凄いのです。私はあの月のシーンをたぶん忘れないと思います。

 

アネットは、ヘンリーの目からはずっと人形に見えていて。観ている私(観客)にもアネットの姿は人形で。ヘンリーの、自分とアンの子供であるアネットを受け入れられないという違和感をすごく感覚的に物理的に現していて、凄いなと思いました。

 

光を浴びて歌い出すアネット。

幻想的で美しさもある不可思議な世界。アネットの歌声はアンの亡霊と呪いでもあって。現実からふわりと浮遊するように異世界を魅せてくるカラックス監督の魅せ方に凄いなと私はうなりました。すごい。

 

アネットは終盤までずっと人形なのですが。最後にヘンリーとアネットの二人だけのシーンがあって。二人は対話をする中で、アネットが人形から人間になるその場面は鳥肌が立ちました。お客さんである私は、ヘンリーからの視点でアネットを見ていて、だから今までずっとアネットは人形だったわけですが。ヘンリーがアネットを人形ではなく、ひとりの人間として向き合った瞬間にアネットは人形から人間になるのでした。もう言葉では表せられないくらい凄かったです。これはもうこの映画の一番の魅せ所と言っても良いでしょう。

 

人間である幼いアネットが、ヘンリーに言う

"愛するものがなくなってしまったね"

 

なくなってしまったと同時に、愛するものがヘンリーの手にあったことを告げていて。そのすべてを己の手によって失くしたことをヘンリーはアネットから告げられる。アダムは佇まいから語るのが本当に魅力だなと感じるのですが、ここでもアダムの表情というか佇まいと体の内からの変化や色々な気持ちがすごく言葉ではなく豊かに伝わってきました。

 

これは私が映画「アネット」から受け取ったもので感じたことなのですが。ひとりの人間をひとりの人間として見ることの難しさと、それがいかに重要なことかということ。愛するものから目を逸らすな、逸した瞬間から失っていくよ。そしてそれは取り返しがつかないよ。とカラックスから言われているように感じました。ラストの床の上に横たわる人形のアネットが語っていることはその代償となった人間の命を現しているように私には見えて、とても胸がきつく痛くなりました。

 

愛の歌であり悲劇でありコメディのようにも描かれるけれど、映画の中で取り扱われている出来事は人間社会で実際に起こっている事で。だからファンタジーの世界ではなく、現実の私にリアルに地続きに感じられました。

 

その現実から浮遊するかのように魅せられる美しさがカラックスの映画にはあるんだなと私はすごく感じて。そこに惹かれるんだなと思いました。人間というリアルとダーク・弱さと暗闇と影と光と絵画的なファンタジーが融合されてスクリーンという枠を感じさせない自由自在に飛び回るレオス・カラックス監督。なんて凄い人なんでしょうか。

 

ラストのシーンで。

人形のアネットが床に落ちて人間として去っていった画と、一人残されたヘンリーの姿。この映画は取り返しのつかないことをしたヘンリーを庇うでもなく、慰めるでも持ち上げるでもなく、変にポジティブに映そうとするでもなく。二人の人間の命を奪ったというもう永遠に戻らない事実と、アネットを愛することすら叶わないという事実をヘンリーにそのまま渡していて。部屋の隅にひとりヘンリーを残して俯瞰していく最後のそのカメラの視点が私にはすごく胸にきました。静かな、静かにまっすぐと見つめる視線でした。

 

 

スパークスラッセル・ルイス、ロン・ルイスの二人のインタビューがありました。非常に興味深い素晴らしいインタビューです。観た方も気になっている方も是非!

https://ginzamag.com/interview/sparks/

 

 

ここからは、別視点からの個人的な感想です。

 

上にリンクを載せましたGINZAのインタビューで、ヘンリーは"有害な男性性"を象徴している人物なんだと言われていました。

 

そのことについて思うことがあったので、私なりに掘り下げて考えてみ ました。

 

"有害な男性性"というのを、もう少し具体的な言葉にするとなんだろうかと思いまして。

・支配加害欲

・暴力を拠り所としている

 

何故有害となるのかというと、暴力の先には必ず相手(人間、動物)がいるからで。

筋力腕力があるが故に加害・暴力が男性性のひとつの象徴のようになっている部分があると感じました。ヘンリーはまさに体が大きくて、シャドーボクシングをしている様からもわかるように体を鍛えていて力があります。

 

この視点での私の感想は、ああ殺されるのはまた女性なんだということで。指揮者の彼は男性ですが。最初に殺されたのはアンで。児童搾取されるのは子供でまた女児なのかと愕然とした思いがありました。

カラックス監督は男性だから、男性目線で描いているからこうなるのか…と思いました。今、カラックス監督がこういうテーマで映画を創ったということは、監督自身が切実に感じていることなのかなと想像しました。

 

 

ヘンリー(男性)の支配欲・加害欲・暴力=有害な男性性。それはヘンリー自身に全く自覚がなく社会の構造の中で染み付いてしまったもので。きっとヘンリーと同じように無意識にも擦り込まれていく中で、いつの間にかそれを拠り所にしている男性は少なくないんじゃないかと感じました。事実、身体が大きくて筋力があるというだけで、女性に対して横暴横柄な態度に出る人を現実で多く見かけるし、私も直接合ったことが何度もあるので。

 

舞台上で死んでゆくアンを見つめるヘンリーには、心のどこかで自分がアンを殺したいとか、アンが本当に死ぬところを見たいというような加害欲があったのではないかな…と。と推察するのです。そういう欲望が知らず知らずの内にヘンリーの中で生まれていたのではないか。

 

印象に残っているシーンのひとつが、アネットの出産の場面で。立ち会ったヘンリーが出産に苦しむアンを心から気遣いつぶやいた言葉。

"何か僕にできることはないか?"

"僕はちゃんとできているだろうか?"

 

このときのヘンリーの表情は、とても不安げで心許ないという様子でした。

それはヘンリーが持っている支配加害欲・暴力をまったく手放している瞬間だったんじゃないかと私は感じました。ヘンリーは心細さでいっぱいだという表情をしていたけれど、その姿は真にアンを愛し気遣うひとりの人間・男性としてとても素敵で。人間と人間が愛情を持って向き合う姿でありました。かっこいいとはかけ離れているかもしれませんが、滑稽に見えるかもしれないけれど。私はとても美しいなと感じました。ヘンリーはアネットの出産時に大きな変化を迎えたんだということがアダムの表情から伝わってきました。

 

だけれど、アネットが生まれてからヘンリーはどんどん不安定になっていって。理由はある意味で明確で。ヘンリーにはアネットの存在が人形に感じられてしまう。ヘンリーは自分が不安定になっていくことやアネットの出産時に感じた自分の変化への戸惑い、違和感を抑えられずに、苦しみます。

 

支配加害欲・暴力を拠り所とする自分にはアネットを愛することは出来ないとヘンリーが戸惑っている描写がいくつかあって。(人形のアネットを踏み潰しているシーンなど)大いなる不安にかられるヘンリーは自分でもわからないいらつきと不安ともやもやしたものを抱え、溜まった鬱憤を晴らそうと夜中ひとりでバイクを飛ばすのですが。そのバイクのシーンが、どこか物悲しくて。バイクが走るのを後ろから捉えた画で、そこに流れる音楽は美しいのに人間の弱い部分を表しているように私には感じられて。このシーンはとても心に残っています。

 

そのヘンリーが抱える不安の正体は、これは私の推察ですが。ヘンリーが支配加害欲・暴力に慣れ親しんでしまっていて、子供を育てる家族となることはそこから大きく離れることになるからだと思いました。

支配加害欲・暴力が男性としてのステータスとしてあって、社会の構造がそれを煽っている部分があって。男性という自分を保つために必須のものであるとあらゆる場面から感じさせられてヘンリーは生きてきたのかなと感じました。

支配加害欲・暴力を失ったヘンリーは、不安定になっていきそのフラストレーションから自分のコメディショーでアンを殺してしまったと冗談にならないことを供述する。観客にはそれが演じているのか真実なのかわからない。そんなヘンリーのフラストレーションがアンを本当に殺してしまうところへと行き着いてしまったのだと感じました。

 

女性と子供は男性にとっての人形ではないし、男性の都合の良い存在ではない。アネットが人形ではなく人間であることを、理屈ではなく体感として肌で感じさせられて。あの感覚を創れるのはカラックス監督だけなんじゃないだろうかって感じました。鳥肌が立ちました。凄いです。

この映画はタイトルがアネットであるように、ヘンリーとアンのロマンスだけでなく、アネット(子供)がこの映画の大事な大事な要になっていました。

 

ちょっと横道に逸れますが。

ヘンリーがアンを殺すことになる前にどうにか出来なかったのかなっていうことを思いました。もしもの話ですが。支配加害欲・暴力を拠り所としないひとりの男性・人間としての在り方を模索する道へ進むヘンリーの物語を観たいなって思いました。

 

何の罪もない子供アネットが生涯背負っていくそれはあまりに重く言葉では言い尽くせなくて。悲しそうな全てを悟ったようなアネットの表情を見て、悲しい胸が痛い気持ちになりました。アネットに一生残る傷を与えたのは、ヘンリーであるのだけれど支配加害欲・暴力を是とした社会でもあり有害な男性性なのだと切実なものを感じました。

 

もし支配加害欲・暴力を手放す恐れや不安、心許なさの中にあっても、ヘンリーがそれらを手放した新しい選択の方へと進めていたら。アンはあそこで死なずに済んだかもしれないし、アネットが児童搾取されることもなかったかもしれない。児童搾取から守ろうとする父親にヘンリーがなっていたかもしれない。愛するものを失ったそのすべては、ヘンリーという男性が拠り所にしている支配加害欲・暴力が起因なのだとこの映画アネットを観て私は感じました。

 

凄いと感じるのは、これを理論的な言葉ではなくジェンダーの問題として議論するのでもなく「アネット」という映画の中でアダム・ドライバーが体現していてカラックス監督が魅せているところだと感じました。感覚的に体感として社会が抱える問題を浮き彫りにしていながらもそれだけを主張しているのではなくて。音楽と歌とヘンリーという人間と「アネット」という映画・芸術に私は魅せられました。

 

 

☆最後にヘンリーを演じたアダム・ドライバー(とにかく凄かった!)のことを書いていきます。この映画の主軸となっているのはヘンリーの物語で。とにかくアダム・ドライバーを観たな。堪能したな。と感じました。

アダムの魅力ってたくさんあると思うのですが。私が思う魅力は表情とかではなく、アダムの演じる役の変化とか心情が伝わってくるところで。ぽんって距離を飛び越えて観客(観ている人)に伝わってくるんですよね。スクリーンから出てくる。そこがすごく素敵で彼独特のものだなって感じるのです。

 

私が受け取る感覚なのですが。スクリーンの中に引き込む俳優とスクリーンから出てくる俳優がいて。アダムは完全にスクリーンから出てくる俳優で。アネットを観てさらにそれを感じました。3Dとかではなく感覚なのですが、すごくこっち側に出てくるんですよね…!

それはアダムがカメラの向こうのお客さんの存在を意識しているからではないか、と思うのです(私の感覚で)特に自分がアップで映るときは確実に意識してると思います。他にも理由はあると思うのですが、カメラの向こうのお客さんを意識しているっていうのが、スクリーンから出てくるように感じられる大きな理由のひとつだと思いました。

 

そして作品ごとにアダムという肉体の中に演じる役の魂が入ってるって感じるんですよね。演じていないアダムのことは私は見たことがないから、今まで出演した映画の役のアダムを観ているわけですが。出立ち含めアダムが画面に映ったその瞬間から、あ、別の人だって感じるんですよね。今まで観たどの役とも違う。当たり前って思うかもしれないんですが、映った瞬間からそれを感じるって凄いことで。中身が違うんですよね。

 

そして初めて聴くアダムの歌声は中音域の声の響きが甘くて魅惑的でした。歌って本来の自分がすごく出てしまうものだと私は思うのですが。アダムであるんだけれども、ヘンリーの歌になっていて。凄いな、って思いました。とにかくアダムに魅了されました。カラックス監督もアダムに魅了されたひとりなんだなって映画を観ていて感じられて。なんだかそれが嬉しかったです。すごい俳優だ。

 

アンについても書かせてください!

この映画で描かれているのがヘンリー視点なので、作中のアンの描写もヘンリーの目線からのものになっていて。アン側からの描写やアンのことを掘り下げるシーンがほしかったと個人的には思いました。

ある種、アンという女性はヘンリー(男性側)からの理想として描かれているので、私にはアンも人形のようというか。男性側からの理想の体現になっていて、ひとりのアンという人間としては映されていなかったのが(そういう意図で撮ってるのかもしれないのだけど)、そこが残念だなって思いました。物足りないというか。生きてるアンを私は見たかったです。

 

 

 

以上、長くなりましたが

最後まで読んでくださった方ありがとうございます!

 

 

03.映画「へんしんっ!」


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へんしんっ!

原題:Transform!

監督・企画・編集:石田智哉

キャスト:石田智哉、砂連尾理、佐沢(野﨑)静枝、美月めぐみ、鈴木橙輔(大輔)、古賀みき

日本語字幕・音声ガイドありのオープン上映

 

◎あらすじ◎

電動車椅子を使って生活する石田智哉監督は、「しょうがい者の表現活動の可能性」を探ろうと取材をはじめた。演劇や朗読で活躍する全盲の俳優・美月めぐみさん、ろうの手話表現者の育成にも力を入れているパフォーマーの佐沢静枝さん。多様な「ちがい」を橋渡しするひとたちを訪ねる。

石田と撮影、録音スタッフの3人で始まった映画制作。あるとき石田は「対人関係でちょっと引いちゃうんです。映画でも一方的に指示する暴君にはなりたくないと思っていて…」と他のスタッフに打ち明けた。対話を重ねながら、映画のつくり方も変化していく。

(へんしんっ!公式ホームページより)

https://henshin-film.jp/

 

 

◎感想◎

石田監督が、すごく自分自身と向き合いながら、閉じこもるのでも、ぐいぐいと無理やり行こうとするのでもなく、静かに見つめながら潜りながら出会う表現者の方たちとまさに出逢いながら進んでいくそのやり取りがすごくなんて言ったらいいんだろう、魅力的だった。

石田監督は、医療的ケアを必要としていて。そんな自分の身体の取り扱いや注意点などをまとめた取り扱い説明書を自分で作成していて。写真と文章でわかりやすく伝わるようにと作られているという話が出てきた場面があり。

生きてるなかで、自分のことだったりを言葉で伝えることが必要な場面がとても多くて。その伝えるというそれも表現だと感じると話していたのが、印象に残りました。

私たちは人間ひとりひとり表現しながら生きているんだと思った。当たり前のことかもしれないけど、わたしの中で日常に新たな視点で色が差し込まれたような感覚になり、ハッとしました。

 

石田監督が砂連尾さんのダンスの公演に出演して、自分の身体を肯定的に捉えらるきっかけになった。と話していて。表現は可能性を広げてくれるものだ。とすごく改めて思って。

表現するということが、特定のひとだけに許された特権になってしまっているような部分があるなって感じて。その認識は、根本的に違うよなって思いました。誰だって心は自由になのだから。

 

この映画を観て、自分の可能性が広がりました。うれしい。たのしい。子どものように無邪気な気持ちになって、よろこびを感じました。心に深く触ることができる、それが表現の力なのだなと感じました。

 

美月さんが話していたことにすごく考えさ  せられました。自分の病気のことを知ってってと言うけれど、他の病気のひとのことも知ろうとしていこうよって感じるって。ハッとしました。

自分のことばかりじゃなくて、自分も理解していこう、って、そうやってみんなが自分のできるところから知っていこうってなれたら、もっとこの世界は誰もにとって、生きやすい生きてていいんだって思える世界になるって感じました。

それだけ、自分のことでいっぱいいっぱいっていうことも承知の上で、それでも、知っていこうよって思うって美月さんは話していたと私は感じた。

そうだよなって。人間と人間だから。わからないことは、恐怖になったり怖かったりするけど、知っていこうって知っていけたらいいなって思いながら生きるだけでも、違う気がするって感じました。

 

最後のダンスのシーンはほんっっっとうにすてきで。とっても魅入ってしまいました。時が止まったかのように輝いていました。

 

日常の時間から解放されて。日常で抱える壁からも解放されて。できないってことからも解放されて。それぞれが自分の踊りを踊っていました。

砂連尾さんが稽古場で話していた、「個にこもらずに、他人に寄り添いすぎずにいること」まさにこれを具現化しているなって感じました。ひとりひとりがひとりひとりでありながら、一緒に踊っていて。みんな良い表情をしていて、楽しんでるのが伝わってきて観てる私も顔がほころんでいました。

 

いたずらっこのような遊びも感じられて。だけどそれは相手への尊敬と敬意と一緒に今この瞬間を踊っているっていう感謝が存在していて。

踊っているひとりひとりの生き生きとした目がきらきら輝いてて。観ている私も童心に返ったような生き生きとした気持ちになりました。楽しかったなあ。最後のシーンだいすき。

 

最後石田監督が手を上に天に向かって挙げた、この最後のシーンを観て。私は、ここからまた始まるのだなって感じました。

 

「へんしんっ!」

このタイトルの意味を考えます。

とても好きな映画に出逢えて、嬉しいです。

私もまだまだへんしんっ!できるって気持ちになっています。観た人にそう思わせるって、すごいことですよね。

 

石田監督の次の作品も観たいです!

砂連尾さんの公演も観に行ってみたいし、美月さんの公演も、野崎さんの手話の絵本の読み聞かせのコミュニケーションも興味があります。

 

私はやっぱりこの表現の世界に掬われて生きているちいさなひとりの人間であることをまた感じたのでした。なんだか、自分も光の粒となって還元したいなって思いました。

すぐには無理でも、ゆっくりでいいから、一歩ずつ私も始めたいと感じました。土の中でしんぼうがんばります。

 

石田監督をはじめ、制作者・出演者の方々。

素敵な作品に出逢わせてくれた、FTレーベル プログラムディレクターの長島確さん、河合千佳さんに感謝です。

 

 

☆オープン上映について☆

 

視覚に障害がある方が映画を楽しめる音声ガイドと、聴覚に障害がある方が楽しめる日本語字幕の両方を映画の中に組み込み、誰もが楽しめるようにと作られたものを石田監督がオープン上映と名付けたそうです。

バリアフリーではなく、オープン上映という名前にしたそのことにすごく大きな意味を感じました。

 

 

〜わたしの感想〜

音声によるガイドと、字幕を映画の中に組み込んでいてとても新鮮だった!わたしが非常に良いなと感じたことは、音声を聴いてああ、視覚に障害がある方はこうやって映画やお芝居を観ているんだっていうことを肌感覚で知れたことです。

 

ここには、見えるひとも見えないひとも聴こえるひとも聴こえないひとも、それぞれがみんな同じ映画を観て楽しんでいるんだって感じられて。

少しずつでも改善していきたいと思うのだけど、普段マジョリティの中でないものにされてしまうことが多いなかで。

 

オープン上映となっていることで、お互いの存在を認識できるというか。それぞれの日常を生きている人間の存在を自然に当たり前に意識できて。ああ、もっとこのオープン上映が普通になるくらいなったらいいなあとすごく感じました。

しかも、見えるから見えないからとか聴こえるから聴こえないからどちらが上とか下とかはなくて。同等の同じこの世界で生活しているひとりの人間としての存在を自然に感じました。

 

オープン上映が画面を観ているひとの存在を想起させてくれることによって存在を認識できる。認識できることによって生活の中でのちいさな変化があるとわたしは思いました。そのちいさな変化が誰もが暮らしやすい社会に近づく一歩になるとこの映画を観て感じました。

 

社会による障壁が多すぎるから…もっともっとみんなが認識して知っていける当たり前に誰もが生活しやすい国になったらいいのにとすごく思います。

 

余談。

字幕機貸出サービスや台本貸出、イヤフォンで聴ける音声ガイドサービスなどがありますが。それだと個々でやるのでそうじゃない方が意識することってほぼないのが現状で。

このオープン上映が主流のひとつになったらいいなと強く感じました。

 

※追記。音声ガイドや字幕機貸出、手話通訳などのユニバーサルサービスがあるのが当たり前な社会にもっともっとなっていくことを望みます。この社会の設計があまりにも限られた人に向けて作られていると、自分自身病気になったこともありすごく感じています。この映画をきっかけに、ユニバーサルサービスというものに興味を持ち必要性を理解する知ろうとする人が増えるといいなと思いました。興味を持つ、知ろうとすることって、コミュニケーションの原点だなと感じました。もっともっと当事者以外の人たちの声だったり、知っていくことだったりが必要だと思いました。

 

そして言葉を耳で追うことがむずかしい方も見やすくなるなと思いました。わたし自身も、字幕があると読みやすいし理解がしやすかったです!

また、音声ガイドの導きによって、映っている場面の中で注目する箇所が生まれて。それが新鮮で心に残る場面となり、音声ガイドがなかったらそこにわたしは注目していなかったかもしれないと思うので、新しい映画体験となりました!

 

 

00.映画「永遠が通り過ぎていく」


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戸田真琴監督初作品「永遠が通り過ぎていく」

 

「マリアとアリア」

「Bule Through」

「M」

 

三つの短編からなる作品。

 

昨年から観たかった、念願叶って劇場にて体感することが出来ました!上映後の戸田監督とのむらなおさんとのトークショーを含めて、今日という日が特別な特別な時間になりました。映画には揺れている空気までもが映されていて。すべてのすべての瞬間が、愛おしかったです。

 

オープニングシーケンス。

めちゃくちゃ好きでした。ドビュッシーの月の光が流れた瞬間、月の光は私にとって特別な曲でもうどうしてわかるの?って思いました。映し出される情景が圧倒的に美しくて。眩しくて。カメラというより、人の目の(戸田監督の目の)レンズで撮ったんじゃないかって感じました。まるで走馬灯のようで。私は自分の走馬灯を見ているのかなっていう感覚になりました。変な言い方になるかもしれませんが、自分が水に沈んで死んだような気持ちになって。ああ、これで死んだから生きられるって感じました。圧倒的な生命の輝きと死の体験を味わっている気持ちになりました。

 

「アリアとマリア」

アリアとマリア、二人はこんなに近くにいるのに(物理的に)、こんなにも離れていて(心理的に)それが絶望を感じさせるのだけど、"理解し合えない"という美しさを見ていると私は感じて。ふたりの放つ切実さが、お互いに刺さっているのが表情から伝わってきて。それはとっても痛いはずなのに、二人は自分に嘘をついて相手に合わせようとか自分を変えようとはしていなくて(それが出来ない強さともどかしさも感じられて)己が持つ信念、欲望、願いに誠実でまっすぐである姿がとても綺麗だと思いました。

 

 

「Blue Through」

好き。映るどれもが愛おしかった。伴走する音楽がとても、好きだった。見ながら私は勝手に自分の過去を遡って美しくしてもらったような気持ちになって。あなたの通ってきた道は美しいんだよって、戸田さんに言われているように感じて。自分の過去とのこんな素敵な出逢い方があるんだってびっくりと喜びと涙とぽろって体のかさぶたみたいな皮が剥がれたような感覚になりました。

 

「M」

大森靖子さんの「M」という曲を私は聴いたことがあるのに、を目の前に初めて聴いたような感覚になりました。稲穂に反射して、太陽が横顔が涙が、映像がばあああああって体の中に入ってくる感覚でした。音響がすごく良くて、劇場内に響く大森靖子さんの声は、いつだって1対1で自分に歌ってくれている大森さんの声で。ああ、大森の声だって。私は大森靖子さんがやっぱりすごく好きなんだって思いました。

戸田真琴さんと大森靖子さんという物凄いふたりが、映画と音楽という芸術に命をぶつけているのが私の体に伝わってきて。生きる方へと押し出される感覚で。これを見たからには、私はどうにか生きなくちゃと思いました。映画館で観ることが出来て本当に本当に良かったです。

 

 

三編から立ち上がってくるものがありました。今、このタイミングで見れたこと私にベストでした。また違うタイミングで見たら、感じることや思うことが違って見えそうで。絶対違うんですよね、きっと。見たそのときの自分を反映する作品なんだと感じました。

 

三編全部を通して光がすごくて。光が、立体的でそれは影も写しているからだと思うのですが。その光は絶えず揺れていて。なんだかまばたきをして見ているような気持ちになり。何度も何度も胸が揺さぶられました。こんなにも世界を美しいと思っていいんだって、思えました。

 

眩しいとも違う、なんて表現したらいいのか自分の目の感度が極度に上がったような。くっきりと繊細に鮮やかで残酷過ぎるくらい解像度が上がって世界を見ているそんな感覚になりました。そしてそれこそが私にとっての「映画」という存在で。映画という媒体が持っている潜在的で一番純粋な力を濃度凝縮して表現しているなんて物凄い映画なんだと。私にとって映画の中の映画でした。

 

 

私は昔からなのですが。

詩、演劇、音楽、芸術というものに救われながら生きていて。それが自分が生きていくために必要で。芸術に触れて、なんとか息をしていて。そういう人間だから、自分が生きていける映画に出逢いたくて。

この「永遠が通り過ぎていく」は、私にとって生きていくのに必要な映画でした。

 

きっと絶対勘違いじゃなく。ああ、これは私に向けて創られた映画だって感じられて。自分の感性で生きてて良いんだって胸がうぅって苦しくなり、どうしようもなく嬉しくなりました。私のようにこの映画を必要としている人がたくさんいるんじゃないかなって強く思いました。

 

余談で。

私が今まで観てきた映画の中で、自分がどういう風に世界を見ているかがそこに映っている。まるで自分の目で見ているみたいだと感じたのがジム・ジャームッシュの「パーマネント・バケーション」という映画なのですが。

「永遠が通り過ぎていく」は、私が見ている世界を悠々と飛び越えて、

 

戸田監督の映画は生きていていいんだよとに、もっと感度を持って生きていいんだよって言ってもらったように感じて。

私は水に反射する光を見るのが好きなことたか、空を動く雲を見ては上空の風の速さを感じていることとか、いつもぼーっとしながら人が生活している周囲の環境音を聴くのが好きなこととか。

なんかそういう自分だけの感性を持って生きることをそういう感覚全部をいいんだよってこの映画は語っているように私は感じられて。そのどこまでも先頭を切って走っているのが身を持って生きているのが戸田監督という人間なんだって思いました。

 

「永遠が通り過ぎていく」は、私が見ている世界を悠々と飛び越えて、戸田真琴監督を通して見る世界は圧倒的に言葉を越えて美しくて。世界を自分を、過ぎる一瞬一瞬の瞬間をぎゅーって両手で胸に抱きしめているような気持ちになりました。私にとって特別すぎる特別な映画になりました。また映画館で、戸田監督が創る映画に会いたいです。

 

 

 

上映後にパンフレットに戸田監督からのサインをいただきました。まこにゃんとカントクの文字。素敵。自分の番が来てサインをもらうときに少しだけ直接お話が出来たのですが、映画から受け取るものが多すぎて言葉に詰まってしまった私に、戸田さんは目を見て言葉を待ってまっすぐ受け止めてくださって。なんて誠実でなんて素敵な人なんだろう、うう。ありがとうございます。

へこたれながらも、私ももっともっと自分の感性を自分が持っているものを磨いていきたいと思いました。



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It's my special thing.

 

 

shelf「Rintrikーあるいは射抜かれた心臓」

 

shelf「Rintrikーあるいは射抜かれた心臓」ジャカルタで上演される公演の、東京での通し稽古を観に行ってきました!

 

初演を観て、今回を観て感じたことは。この作品に流れるヒリヒリとした切実さが、今日本で生きてる私たちにも通ずるものがあると感じて。Rintrikの存在を必要としていた若い女性、村人の気持ちがすごく伝わってきました。初演時とはまた違う、パワーアップを凄く凄く感じました。

 

Rintrikの言葉は不思議ともっと聴いていたくなりました。字幕が出ていたのですが、インドネシアの言語だとどんなリズムに、どんな響きになるのだろうと知りたくなりました。

村人たちへ答えるRintrikの言葉は問いかけでもあり、なぞなぞのような茶目っ気も感じられて。三橋さん演じるRintrikの存在に穏やかでどこまでも広い大草原のような大きなものを感じて、安心した気持ちになりました。誰もが神なんだよと言う、彼女の言葉はとても心に残りました。そうやって互いに大切に出来たらいいのに。

 

苦しんでいる若者、若い女性も大きな自分の力ではどうしようもない大きなものに影響されて生きているのを感じて胸が苦しくなりました。そして後半、権力に溺れた人物が現れ悲しい事態へと進んでいきます。大きな時代の波の中でもがきながら必死に生きることは、国が違っても時代が違っても同じなんだと感じました。

 

いろんな人の心の中に、私の心の中にもRintrikがいたらいいのに。作者の方は、忘れないためにこの作品を書いたのだろうか。そんなことを考えました。

 


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写真は初演時(2020年)

 

ジャカルタでの公演が新しい出会いとなって、素晴らしい時間になりますよう。

 

12月になったばかりの寒い夜の一日に。

 

久しぶりにみんなと会えて嬉しかったです。なんて凄い人たちなんだろうって改めて感じたのであります。私も色んなことに負けながらも、負けてないでがんばるぞい。

02.映画「キャスト・アウェイ」


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監督:ロバート・ゼメキス

脚本:ウィリアム・ブロイルズ・ジュニア

出演:トム・ハンクスヘレン・ハントニック・サーシー

 

原題:Cast Away 

難船した。漂流者。世間から見捨てられたの意。この映画では両方の意味が含まれていた。

 

2000年公開。

空路や地上で物流サービスを提供する世界最大手の会社であるフェデックス社に勤めるチャック・ノーランド(トム・ハンクス)は、世界中を飛び回る。各地の物流倉庫に出向いては1分1秒でも遅れるなとタイマーを手に、いかに効率良く早く合理的に荷物を振り分けるかを指導していくのが彼の仕事だった。秒刻みでタイマーは動き、荷物を人を管理していくチャック。

季節はクリスマス。街はイルミネーションに彩られ、送り合うクリスマスプレゼントで倉庫は大忙しである。そんなチャックには恋人ケリー・フレアーズ(ヘレン・ハント)がおり、お互いに忙しい中でも手帳を見せ合いながら二人で会える時間をなんとか見つけ出し、長年交際を続けてきた。しかし、チャックは移動中の飛行機が事故に遭い、ひとり無人島へと漂流する。

 

秒刻みであらゆるものを管理してきて、また人間はそれが出来ると何も疑わずに生きてきた彼のこれまでの生活とは一転し、人間も時間も食べ物、水さえもない状況に立たされる。

 

※記事に結末を含みます。

 

トム・ハンクス演じるチャックが魅力的で、嘘くささが微塵もなくて現代から突然無人島に放り出されたというのがとにかくリアルですごい!

 

いろんな表情、出立ちからチャックの感情がダイレクトに伝わってきて。カニを捕まえようとしたり、ヤシの木を割ろうとしたりとりあえずいろいろチャレンジしてやってみるチャックに笑ってしまうような面白さがあったり、だけど無人島にいる心細さみたいなものはあって。もしも自分だったらひとりで生きていけるかな、とか考えた。

 

まず水がないから喉が乾き、窮地はすぐにやってくる。その中でヤシの実から水分を確保したり、魚を捕まえようとしてみたり、なんとか生きて抜くために知恵を絞る。火をおこすことに成功したときの物凄い達成感と全知全能の神は我だと言わんばかりの体の中から沸き起こる喜びの笑いのシーンは特にすごかった!人間の生きる力と生命力を見たようなトム・ハンクスの演技がすごい迫力だった。

 

そして月日は流れ無人島生活が4年を迎える頃には…岩陰からひょっこりと顔を出したチャックの姿はすっかり痩せこけ全身は毛で覆われ目の色は光を失っていて。人間というよりまるで野生の鹿とか熊のような動物のようになっていた。食料を探す、天敵から身を守る。そういうシンプルに生き抜くことだけへの意識までそれがめちゃくちゃリアルで。

 

だけど、どんなに野生動物のようになってもチャックは人間なんだというのがわかるシーンがあって。

洞窟の壁に描かれた恋人の顔の絵。しかも自然の材料から色を塗っていてカラフルなのだ。日数を数え季節を知る壁に刻まれたいくつもの線。自分の心の内を吐露するバレーボールのウィルソンという相棒の存在。ウィルソンはチャックを叱咤激励する。羽根のペイントがされた荷物。羽根のイラストに何かを感じ、この荷物だけは開けずに届けようとずっと大事に取っておいたのだ。

 

一度は絶望と諦めから命を絶とうとしたチャックは自分の意思で生きることを選び、何度も何度も大波に阻まれながらも、あきらめず冷静に観察を続け、対策を施しながら島を出るチャンスを待つ。

私はいつの間にか、無人島にはいないけれど精神的な部分でチャックの姿に自分の長い療養生活とを重ねて見ていました。

 

 

 

大波を越えて島を出られたあとに訪れる相棒ウィルソンとの別れ。ウィルソンは、チャックと同じ飛行機で輸送されるはずだった荷物のひとつで、クリスマスプレゼントにと贈られたバレーボールで。あるきっかけからそのバレーボールに顔のようなものを見たチャックは、バレーボールに話しかけるようになる。そしてウィルソンと呼ぶようになり、チャックにとってただのバレーボールではなく無人島での4年間で唯一、自分の心の内を語り合える、自分を激励してくれる大切な大切な相棒のような存在になっていくのです。

 

そんなウィルソンとの別れ。

「ウィルソン〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」

と叫び海原の筏の上でぽつんと一人声を上げて泣くチャック。「助けてあげられなくてごめん、ウィルソン」と慟哭するトム・ハンクスがすごい。無人島の生活の中でたった一人傍にいて語り合い叱咤激励してくれた友を失くした悲しみが痛いほど伝わってきて、既に感情移入している私は一緒になってウィルソンー!!と胸が苦しくなりました。

 

 

そしてなんと幸いにも偶然通りかかった船に発見され、救助されてチャックは無事4年の時を経て人間社会に帰るのですが。有り余り残される大量の食料。ボタンひとつで火が着くチャッカマン。無人島での暮らしとのあまりの違いに人間社会にとまどいを隠せないチャック。これがまたリアルで戸惑うチャックの心情がトムの表情から伝わってきて、すごい。

 

 

そして無人島でずっと心の支えにしていた恋人ケリーとの再会と別れ。「僕は二度彼女とさよならした」と語るチャックが人間の友達に心情を吐露する場面。

「でも彼女はあの島でずっと僕のそばにいてくれた」と彼女に心からの感謝の気持ちを話し涙を浮かべるチャック。

 

どこかでずっとチャックが生きていると信じていたケリー。だけど、残酷にも時は確実に流れていて。こんなにお互いがお互いのことを思い合っているのに…

 

大雨が降る深夜。チャックとケリーは再会するんだけど、それはさよならとありがとうを伝える時間となって。二人の別れ。こんなにも愛し合って思い合っているのに。もう一度会えたこと喜ぶ、愛を伝えるでもそれは別れのキスで。相手のことを本当に考えているからこそ、静かにケリーを家に帰るよう促すチャック。こんなにこんなに悲しい愛の別れがあるかって私の胸はぐぅっと苦しくなりました。このシーンはとても映画的だなあと思いました。一番ドラマチックでこの映画の実は芯だなと私は感じました。

 

そしてそしてそれからチャックは、ケリーが残して置いてくれた車に乗って旅に出る様子。お店に立ち寄り何かを購入したようで。その腕の中には、NEWウィルソンが…!!新しいウィルソンを優しく助手席へと乗せたチャックは出発する。

 

どこまでも広く続く道。先が見えないまっすぐで広い十字路の真ん中に立つチャック。これからどう生きようか、どちらへ行こうかと佇む後ろ姿。広い十字路はどこへでも行けるよと言ってるみたいに希望を感じさせて吹く風が心地よい。

風に吹かれ立っているトムがとっても素敵で。言葉では何も語らないんだけど、痩せたトムの背中から表情から伝わってくるものがあって。それがなんとも言えず、良いんだなあ。未来への新しい出会いの予感を感じさせるラストでした。

 

最後まで見終わって、私が思ったことは。人間の本来持っているであろう生命力というか、生きる力をもっと信じてもいいのかもしれないと思いました。生命力と、どんなんでもいいから生きる意志を持ち続けること。

どんな状況でも息することを続けていたら、風向きが変わる瞬間は絶対やってくるっていうか。動けないときは、動けないなりにとなんとか息をしてればチャンスはやってくるから。そしたら最終的には前に進んでいくから、息をするのやめないのがそれが人生なのかもしれないと感じました。

 

 

トム・ハンクス

…なんてすごいなんて魅力的な俳優なんだ。

ああ、トム・ハンクス

01.映画「ナイトクローラー」


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原題:NITGHTCRAWLER
監督、脚本:ダン・ギルロイ
出演:ジェイク・ギレンホールレネ・ルッソ

あらすじ。
悲惨な事故現場や殺人現場を映像に収め、それをテレビ局に持ち込み高額で売りさばくフリーランスの報道映像カメラマンとなったルイス(ジェイク・ギレンホール)。そこでルイスは、ひょんなきっかけからどのような映像を買い放映するかを握るテレビ局の上の立場にある女性ニーナ(レネ・ルッソ)と出会う。彼女との出会いが、ルイスをより刺激的な映像を求める方へと向かわせていく。そしてニーナもまたルイスとの出会いにより彼女の人生を大きく変えていく。興奮と高揚と抱え、徐々に常軌を逸していく二人が行き着く先は…。

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何から言葉にしたらいいのか…。とにかく怖かった。怖くて先を見るのが嫌だと思ったくらい怖かった。カメラを人に向けることは暴力であるということを画で感覚的に一瞬で解らせるあの一連の画にはこの作品の凄みを感じた。たぶんあそこが最大に盛り上がり緊迫するクライマックスだと思う。カメラが人を殺すことだって出来るんだって言ってるように感じた。肌で理解させにいくあの画は頭から離れない。現場をカメラに収めることを越えて捏造(ねつぞう)していく方に舵を切っていくところは、捏造を閃いた彼のその興奮と体が思わず動いてしまう様をジェイクが生々しく演じていて。恐ろしい場面なのに妙に高揚感がある様が、自分にも同じ人間としてそういう部分を備え持ってることを感じさせられて、恐ろしかった。嫌な本質を魅せつけられているような。凄まじかった。


ルイスとニーナの間に常に揺れ動く交渉。打算。期待。見返り。欲望。焦り。交渉する限り、そこに現れる見返りや勘定の秤。魅せられる未来への期待。裏切り。裏切りというのは勝手なイメージや行動を相手に対してこちら側が持っているから生まれる。裏切れない関係に持ち込んで、相手を動かそうという意図が生じる関係を悲しいと感じた。でもそこに喜びや快感を感じる人間もいて。刺激に魅せられ人間を失っていく様は、周囲の目からビシビシと感じられた。特別リックの存在がルー(ルイス)の異常性を浮かび上がらせていた。あの画面の画面から語りかけてくる目を忘れたくても焼き付いてしまってたぶん忘れられない。


ラベンダーかな。毎朝、植物に水を与え育てるルイスの手。綺麗で美しかった。カメラを向ける彼の手。死体を掴み引っ張ってを捏造させていく彼の手。小切手を受け取る彼の手。握手する彼の手。人間は言葉でいくらでも嘘をつけるかもしれないけど、手は嘘がつけないなと感じた。矛盾に見えるかもしれないけど、全部同じ手なんだよな。カメラを撮る彼は、美しくはないなと私は感じた。カメラを手にする彼は自分だけの快楽と興奮を求めていて、それが達成されるならばあとは誰がどうなろうと構わない。まるで取り憑かれたかのように己の欲望に動かされ突き進んでいくルイスの姿は、ある意味まっすぐでそれ故に残酷で。子供のようだな、と私には感じられた。ルイスを演じたジェイク・ギレンホール、すごい俳優だ。

タイトルのNightcrawler。「ナイトクローラー」で大ミミズ。夜間に地上にはい出て動くミミズ。を表すそうです。これを直訳すると「夜をはう人」映画を見終わってからタイトルの意味を知り、戦慄が走りました。



要注意
※映画全体を通して、悲惨な事件・事故の現場の映像が何度も何度も出てきます。モザイクや隠して暗に匂わせるなどの方法は取っておらず、直接的にそのまま映されています。それがこの映画に於いて主題となる重要なものだからなのですが。苦手な方はご注意ください。
(私は血を含めグロい映像が非常に苦手な人間で。見終わってから1.2週間は映像が頭の中に焼き付いて離れませんでした。それくらい私にとってはショッキングでした)

観劇 shelfドラマリーディング「バイオ・グラフィ:プレイ(1984)」の感想2

感想1はこちら
物語のおおまかなあらすじや、具体的なシーンの感想を書いてます。

shelfドラマリーディング「バイオ・グラフィ:プレイ(1984)」 - 本日のshelf♪ver.IMA


感想2 〜感覚編〜

こちらでは私の妄想を交えながら。この上演を観て、戯曲の内容はもちろんの上で嗅覚のような感覚的にキャッチしたものを頼りに書いていこうと思います。

観てない方にはなんのこっちゃかもしれません。ただ2022年に本公演があるようなので、何も情報なく観たい方には内容に触れるためこの先は読むことをオススメしません。先に読んでも問題ない方は、是非に。もし読んで面白そうだなと興味を持ってもらえたら、本公演に足を運んでみてください。きっとドラマリーディング公演とはまた違う、深さや広さや距離とてつもないものが待っていると思います。









演出家(ゲームマスター)は、キュアマンの未来のひとつのバージョンなのではないかと感じた。未来。


沖渡さん演じるキュアマンと川渕優子さん演じるアントワネットが、過去だとして。


綾田さん演じる演出家(ゲームマスター)は、未来と過去の間に存在しているように感じた。未来から来ていて、キュアマンを過去からある未来へと導こうと。そのためには変化が必要で。

演出家(ゲームマスター)は、キュアマンであり、過去のキュアマンからある未来を選択出来たキュアマンで。未来から、過去の自分へとやってきたのではないか。

まさに未来からきた演出家(ゲームマスター)という名で、キュアマンが新しい未来へ行く可能性を持つ場が今観た2時間30分(おそらく)のだったのではないか。と感じた。
これは観劇した私の妄想で、そういう風に作者:マックス・フリッシュが意図したのかはわからないけれど、そう感じた。面白かった!途方もない面白さ。



男性アシスタント、女性アシスタント。

名前はなく、あえて女性、男性としたその訳にも意図があるのではないかと思う。それは三橋さん演じる女性アシスタントと横田くん演じる男性アシスタントの関係がとてもフラットで対等だったから。
どちらも無理をしているわけではなく、極当たり前にフラットな関係性を築いていた。二人のやり取りや掛け合いは、見ていて聴いていて息がしやすくてとても心地が良かった。


比較すると、何故だかキュアマンとアントワネットの二人のやり取りは、見ているとなんだか胸がつっかえるような、息苦しいなと感じた。呼吸がしにくいというか。
それはそのはずで、二人の関係性はフラットなものではなかったから。

キュアマンが、アントワネットをひとりの人間としてではなく女性として、自分の思い通りに支配したい、ときには暴力を使い、女性とは男性が支配するもので、男性に従属するものだという考え方が刷り込まれたであろう状態で接していて。
アントワネットに対してそのように振る舞うことに、キュアマン自身はたぶんそのつもりはなくて。彼は彼女を愛していると思っているし、愛しているのだと思う。
だけれど、そこには男性社会が生んだ女性を対等なひとりの人間としては見ない支配欲が無意識にも刷り込まれていることが感じられた。

そこから新しい未来へ行ったのがマスターで、当たり前のように新しい未来を生きているのがアシスタントのふたりなんだと思った。私の妄想も大いに入っているのかもしれないけど、そういう風に見えた。


対して、アシスタントのふたりの関係性は息がしやすかった。でもキュアマンとアントワネットのふたりの関係性は息がしにくいと感じたのは、私が女性だからだろうか。男性は、あまり息苦しいとは感じないのだろうか。(関係が上手くいっていないぎすぎすした感じやきまづさからくる息苦しさをよそに置いてみて)
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ここも他の人の感想が気になる。


アントワネットが、今までずっと積み重なって氷の下にあったものが砕けて出てきたように声をあげる場面があったのだけれど。
(主語を大きくしてしまうけれど)男性は、彼女アントワネットがなぜこんなにも怒っているのか、悲しんでいるのか、それがわからない人ももしかしたら多いんじゃないかなと思った。また彼女が怒ってる。って思ってなんで怒っているかわからない。本当にわからない。と。
そのくらい男性社会が長い年月(何百年、千年?)も男性が支配する社会が続いていてそのくらい無意識に染み込んでいるのだと。


作者は、男性社会の問題点をキュアマンとアントワネットという個人の関係性の中で。キュアマンと演出家(ゲームマスター)との間の中で。描いていた。

さらには私たちが誰をも支配・加害・暴力・従属のないフラット、対等な関係を築くことが出来る、たどり着ける未来として女性アシスタントと男性アシスタントのふたりを描き。

未来から過去へ来た演出家(ゲームマスター)にキュアマンの行末を任せ、なんとか新しい未来(それは男性社会からの脱却。女性はもちろんだが、男性自身も脱却すること)へと歩を進めるようマスターに託したんだと感じた。

なんとか、新しい未来へ進んでくれよ、頼むぞと願い・祈りを込めて。
作者からのそういう思いを綾田さん演じるゲームマスターは背負ってるように感じた。

作者からマスターへ。
つまり、作者からキュアマンへ。

この戯曲の中では「何度やり直してもいい」という特別なルールを与えて。

何度もやり直すことが出来たなら、ひとりの人間(男性)が新しい未来へたどり着けるかもしれないと考えたのではないだろうか。

マスターは必死だった。

演出家(ゲームマスター)が男性キャストである。ということに演出として(戯曲上の指定があったのかわからないが)
キュアマンと同じ男性であるということがとても重要な要だと感じた。男性が男性に対し導き、働きかけていくこと。 それは自分だから。新しい未来へ行った自分から過去の自分へと。


マスターの彼は、キュアマンに対し何度も必死に伝えていた。「選択する自由があるんですよ」と。そして沖渡さん演じるキュアマンがある場面をやり直したとき。

キュアマンがアントワネットを殴らない選択をしたとき。カップを叩き割らなかった選択をしたとき。

綾田'マスター「良いですよ!違う選択ができるじゃないですか!完璧です!」とキュアマンをとても褒めていたこと。

沖渡さん'キュアマンが声を荒げるたびに、
綾田'マスター「どうしてそう大きな声を出すんです。もっと普通の声で言うんです。」とその度に咎めて言っていたこと。(台詞部分は私の記憶で正確なものではないです)



でも作者は、男性社会と女性のことだけではなく人間というものを描いている。
それが凄いって心底思う。それがこの戯曲の魅力なんだと思う。

人間が人間と出会い、関係を築き、時間を共にし、いつかそれぞれが死んでいく。その中で出会う自分ではない人間、に対して、同じように尊い命を持ったひとりの人間として対等な関係を築けることが人間にとってとてつもなく重要なんじゃないかと。


そしてplay:遊び。

遊ぶことの楽しさを描いている。演じる、模倣するという遊びが持つ喜び。楽しさ。演じているからこそ見えてくるもの。本質を浮き彫りにする力。真実。嘘を嘘と暴く力。自分じゃない者の視点に立つ。もう一度、再現してみる。自分が自分を演じるとどのような作用をもたらすか、どうなるのか。起こってくるフィードバック。視えてくる情景。

そういういろんなものをいろんな角度から感じながら観ていた。ドラマリーディングを聴きながら頭の中に落ちてくるテトリスを組み立てるような、迷路を進んでいるような時空が飛ぶような面白い感覚になった。

視覚には俳優が写し出す場面の情景が視えたり。時空間的に今自分がどこにいるのか点がわからなくなる時間と空間を飛んだような、そんないろいろを体と頭をフル回転で使って体験した。感じた時間だった。



私の解釈・妄想まとめ

□過去(キュアマンーアントワネット)

●過去と未来を繋ぐ。過去から未来へ行って、未来から過去へ来た現在地
(演出家(ゲームマスター))=未来から来たキュアマン(私の妄想)

◇未来(アシスタントのふたり)


ドラマリーディングの座っている並びの関係性から、よりそういう風に視えて感じたのだろう。私の妄想混じりの感想。

受け取るもの、考えるものがたくさんあって観た直後すぐには言葉に出来なかったのだけれど。まだまだ語れて文字数がまとまらなくて。それはすごいことで、なによりの喜びですね。何かを観て聴いてたくさん話したくなるのは、凄まじいものを観たという証なのだ。



〜補足〜


沖渡さん演じるキュアマンは苦しんでいた。あれは男性の苦しみであり闘いなんじゃないかと思った。

染み込みすぎた男性のあるべきとされる行動・慣習、思想からの。

だから加害行為を一切せずに行動(ふるまい)としては完璧になったあとも、沖渡さん演じる彼キュアマンは自分の思考に苦しむ。

加害の行動を見直すことと、縛られている考え方についても変わっていかなければ苦しみはなくならず一度は変わったはずの行動も時が経てばまた元に戻ってしまうだろうと感じた。

キュアマンは狭間にいて、ゲームマスターに変化を促されながらここまできている。

沖渡'キュアマンは簡単に人生をやり直すことはしないし、真剣に考えて悩んでいた。すごくその苦しみというか渦中にいる彼の姿を沖渡さん’キュアマンからすごく言葉じゃない部分の表現ですごく感じた。


綾田さん演じるゲームマスターが一生懸命沖渡さん演じるキュアマンに問いかけていて。
それはゲームマスターにとっても彼キュアマンが過去の自分であり、または油断するとすぐにはまってしまう思考回路を持つ男性そのものだからではないだろうか。

横田くん演じる男性アシスタントの三橋さん演じる女性アシスタントへのフラットな関係性を当たり前のこととして築ける姿に、

綾田さん演じるゲームマスターの必死で一生懸命変えることを、変わることを、選択することを促す姿に、

沖渡さん演じるキュアマンの何度も人生を戻りやり直し、変えることに失敗しながら、マスターに支えられ励まされ導かれながら目を凝らし自分の人生を見つめる姿、新しい未来へと進む道を手探りで探す一歩出してみては立ち止まるけど進もうとする姿に、


私は、言葉にならないものを感じた。喜びと安心と、抱えている苦しさと無意識に入り込んだ意識から自由になることの難しさと、根気が必要だということと、それでも新しい未来に向かおうとすることは不可能じゃないっていう事実を思った。


やり直そうとする何度も同じ場面を繰り返すなかで。

キュアマンは彼から欠落していたと思われる彼女の意思を突きつけられる。アントワネットは、誰にも支配されない支配できないひとりの人間であるということ。


この場面でキュアマンは唖然、呆然としながらも、それでも何か新しい未来を掴もうとなんとかならないかととまどいながらも探そうとしているように(キュアマンと演出家が)私には見えて感じられた。


それは諦めとか諦めないとか存在している言葉で言い表すことができる前の言葉にならない言葉で表現できる前の状態に沖渡さん'キュアマンの姿があった。


その姿それがこの戯曲の持つ絶望であり希望であり核の姿なんじゃないかと思った。

わかった風でもなく、開き直るでもなく、沖渡さん'キュアマンは見つめていたから自分の人生を懸命に目を凝らして見つめ直していたから。

新しい未来を新しい選択を必死に探しているように感じた。だから、優子さん'アントワネットは、そんなキュアマンが何度も何度も場面をやり直すことにつきあってくれていたのではないか。

それは彼女アントワネットが、新しい未来へと行ける可能性を、綾田さん'演出家(ゲームマスター)と同じくらい、いやもっとそれ以上に切実に切実に願って、感じていたからではないだろうか。

最後のあそこが
本当の始まりだと思った。

戯曲が書かれたころから言うと、2022年はもう未来に入っている。新しい未来を生きる現在はどうだろうか。男性アシスタントも演出家(ゲームマスター)もキュアマンもいる。女性アシスタントも、アントワネットもいる。

まだまだまだまだ過去の染み込みは強い。

演出家(ゲームマスター)
この戯曲において導く人なのだ。
新しい未来へ。

それは
現在地にいるキュアマン自身なのだ。