言葉と思考・観たもの感じたもの🎹🌼🌿🌷🐦✨

演劇・映画・音楽を観た感想を書いてます。日記のような思考の記録もあります。

shelfドラマリーディング「バイオ・グラフィ:プレイ(1984)」

shelfドラマリーディング公演
「バイオ・グラフィプレイ(1984)」
作:マックス・フリッシュ
翻訳:松鵜功記
演出:矢野靖人
会場:THE SHARE 104 Joint gallery(原宿)


聴いていてくれる人。お客さんの存在。聴いていてくれる人の存在を以てして初めてほんとうの意味で語れるのだ。私は1番後ろの席で観ていたのだけど。言葉がお客さんの体に染みていくのが視えて。ああ、これだよ!これだよ!って感じて嬉しかった。お客さんの身体と俳優の身体が出会う。存在と存在が出会う。場を空気を時間を共にする。それが出来ることがとてもうれしかった。

ドラマリーディングということで。この戯曲。まるで脳内の巨大迷路を進んでいるような感覚だった。ラストは終わりであり、始まりだと思った。多分、あそこが始まりの地点。どう進むかは観劇した私たち次第。なんだと思った。


ある男キュアマンが人生を巻き戻してやり直す。そこには演出家(ゲームマスター)、彼の妻、女性アシスタント、男性アシスタントがいる。彼の人生は膨大な資料として記録されていて、彼を含めたそれぞれの手元に置いてある。しばしば手元の資料を参照しながら進められていくそれはドラマリーディング公演ということで手元に台本がありそれが物語の中と二重の意味で重なっていて面白い。彼キュアマンは自分の人生だからなのだろうか、あまり手元にあるそれ(資料)を見ていなかったように思う。それがまた興味深かった。

演出家を筆頭に彼の人生のやり直したいシーンを何度も何度も繰り返し、それに付き合う彼女とアシスタントたち。やり直す中で、マスターが彼に問いかけ新しい選択肢を提示していて、キュアマンを励ましていた。マスターはとても必死だった。なぜ彼はあんなにも必死に問いかけていたのだろうか、と見終わってから数日経ち日常を過ごすなかで考えた。マスターは必死だった。そしてそれはこの社会にも繋がっていることなのじゃないだろうかと思った。次に書くけれど、ひとりひとりが必死になっていかないとこの社会は変わらないどころか悪化を続けるのを止められないのだと思った。逆を返せば、ひとりひとりが必死になっていったら、この社会は変えることができるのだ。新しい選択肢を選ぶことが私はできるだろうか。今生きているひとりひとりが、私はキュアマンなんだと思った。


自分の人生にここまで付き合ってくれるなんて、なんて良いのだろうと思った。誰もがこんな風に自分の人生に付き合って巻き戻したり、新しい選択が出来たり、できたらいいのにと心の底から思った。演出家に女性アシスタント、男性アシスタントがいて。自分の人生を共にやり直して見つめてくれる人がいたならどんなに救われるだろう。今社会に必要なのはそういう時間なんじゃないだろうか。人間が人間としていられる時間。


社会、社会と大きく言っているけれどそれは私の日常と密接に結びついて取り囲っていて、だから社会は私の考え方や言動すら無意識にも作っていて。この戯曲は日本語訳で上演されるのが初めてということで。とても底が知れなくて奥深くて、物凄い作品だと感じた。


再現し続けることによって、何が浮き彫りになるだろう。さよならとドアを出た彼女、アントワネットは、彼キュアマンをとても愛していると感じられてなんとも胸の奥から言葉にならない感情が溢れてきた。心がぶああああとなって、震えた。それは“女性“として生きてきた彼女の人生と、何十年もこの社会で女性として生きてきた私の人生が重なったからかもしれない。最後の場面を、他の方がどう感じたのか感想を聴いてみたいと思った。私はアントワネットの方に共振したけれど、人によってはキュアマンの方に共鳴したかもしれない。その違いが、また興味深いと思う。

「我人逢(がほうじん)」禅の言葉で人と逢うことから全てが始まる。と。我、人に逢うなり。人と出逢うということ、それをなかったことにするということはどんなどんな事態だろう。一人の人間として、他者を性別で固定概念で縛ることなく、属性を理由に「支配する」「従属させる」「暴力を振るう」ではない関わり方を出来たなら彼女はさよならではない未来を選べたかもしれないと思った。人間が人間として関わり合える、尊重し合える、今の社会が進んでいけることを希望する。それが私にできることでそれが一歩になると思った。それはゲームマスターが必死にキュアマンに問いかけていたことと繋がる気がする。彼、マスターは戯曲を通してずっと必死だった。マスターの必死が希望だった。新しい未来へ進む。人生をやり直すことは戻ることではなくて、進むことだとこのドラマリーディングを観て思った。まったく知らない場所に足を踏み入れるのはいつだって怖い。過去にしがみつきたくなるけど、マスターがいたら新しい選択が出来そうだ。ひとりじゃなくて、横にマスターのような存在がいたら。今日から私の心の中に綾田さん演じるマスターを置いてみる。怖くなったらマスターに問いかけるのだ。人間はやっぱりひとりでは生きていけなくて。いつだって誰かの力を借りながら生きている。人間が生きていくことを色んな視点から交錯させて時間を歪ませて社会がずっと抱えている問題を浮かび上がらせていて、すごい戯曲だ。

play。遊び。演じるということの楽しさの原点を描いているなって思った。ままごとに始まる模倣、あそび、演じることが本来持っている面白さ、楽しさが色んな場面で感じられて楽しかった。演じる遊びから、本質に迫って入っていく三橋さんが物凄かった。

ニャンニャン、シャー!猫の真似をしてじゃれるシーンがとても愛おしかった。やり直して演技しているのをとっても楽しんでいた。もう一度やり直しているから、愛おしさが増すのだろうか。日常ってこんな瞬間の連続なんだなって思った。このシーンとても好き。

女性アシスタントと男性アシスタントが、キュアマンが選んだやり直すいくつもの場面で何人もの役を演じる。もう考えられないところまできたキュアマンを瞑想へと肉体と精神の統一へといざなうヨガを導く人になったり。二重に演じている仕組みを観客は知っているから、演じている面白さが際立って面白かった。人って、考えすぎて行き詰まると一回はヨガに行くんだなって思って親近感が湧いた。

演じる楽しさからから入っていって、その役が抱える本質とその場面を情景が見えるまでに入っていくその過程、深さ、凄かった。情景が視えた。

アシスタントの二人は環境音を再現する役割もしていて。ベルの音や、鐘の音が鳴ったり、ピアノを練習している音が聞こえたり、バレエの教室から聴こえる音。様々な音の中に私たちは暮らしているんだなあって思った。私が特に好きだったのが、オルゴールを鳴らす音だった。女性アシスタントが手のひらに乗るくらい小さなオルゴールのハンドルをゆっくり回すとオルゴールの音が流れる。何の曲か私にはわからなかったけど、とても綺麗だった。この音が鳴っている間はなんて永遠なんだろうと感じた。そこにいる人たちが、しんとなってみんなその音楽に耳を傾けていた。その時間が美しくて、泣きそうになった。

横田くん'男性アシスタントが言った。

今日の花は綺麗ですね」

今日の花の綺麗さに
私は気づけているだろうか。



演出家(ゲームマスター):綾田將一
ハンネス・キュアマン:沖渡崇史
アントワネット・シュタイン:川渕優子
女性アシスタント:三橋麻子
男性アシスタント:横田雄平


感想2はこちら。
観劇 shelfドラマリーディング「バイオ・グラフィ:プレイ(1984)」の感想2 - 本日のshelf♪ver.IMA

No war.

青空市に響く、八百屋さんの元気な声に、心が癒やされる。いよかんも美味しいよ!ぽんかんは食べやすいよね、甘くて美味しいよ〜!いつもの日常があることにどうしようもなく言葉に出来ない気持ちになって、胸がぎゅっとなった。良いお天気の晴れた日だった。

同じとき、同じ地球で人間が人間を殺め、戦争をしている。私の空は平和だけど、平和じゃない空がある。今、この瞬間も。

No War
戦争はだめだ
戦争に反対します
戦争を今すぐやめるんだ

いつどんなときであっても、戦争はあってはならない。戦争には反対し続けなきゃいけない。NOと強く示していかなきゃいけない。武力・暴力ではない方法を探さなきゃいけない。何があっても。それが人間が課された大きな宿題なんじゃないの。だから歌があるんじゃないの。言葉が物語があるんじゃないの。映画が絵が音楽が踊りが色があるんじゃないの。祈りがあるんじゃないの。

始まってしまったのは、戦争はだめだと日頃から言葉にして言うことがない自分にも責任があるように感じる。人間として生まれた以上、避けては通れないし、背負ってしまっているものがあると思う。私のじいちゃんは、戦争に行った。遠い異国の地で過ごした日々のことを、涙を浮かべながら話してくれた。じいちゃんが自分の生まれや過去を話してくれたのはたった一回そのときだけだった。簡単に話せることではないのだと、じいちゃんの話す姿を見てわかった。

ひとりの小さな言葉が、何かを変えることはないのかもしれない。けど、じいちゃんが私に話してくれたことは私の中に残っている。ひとりの小さな言葉の中にこそ、宿る力があると思う。だから、私はもうおとなだから、言わなけりゃ、言っていかなきゃいけないんだと思う。ここに文字を並べることに、意味がなかったとしても。すぐには変わらなくても、ことあるごとに確かめなきゃいけないことなのだと思う。平和な場所にいる人が言っていかないとなくならないんだと思う。戦争は人間の隙間にすぐ入り込んでくる。始まってしまったら、武器を持つ相手に応戦してしまったら、ますます止められなくなってしまう。

人を殺していいひとなんてひとりもいない。奪われていいいのちはひとつもない。プーチンは一体どんな権力を持っているというの。猛進する人間を止められる人は本当にいないのだろうか。権力とはそれほど恐ろしいものなのだろうか。権力って何。考える。考え続ける。

どんな国だって生活があって暮らしがあって人間が生きている。それを壊す戦争って誰が望んでるかって、死ぬ恐れのない立ち位置にいる権力を握った愚かな浅ましい狂信した人間なのではないか。どれだけ権力を誇示したいのか、領土を拡大してどれだけ支配したいのか。自分がどれだけのpowerを持っているのか、証明したいのか。言葉にならないくらい権力って恐ろしすぎる。人間を錯覚させてしまうのだろう。人は弱いから。だからこそ、自分を小さなものとして自然や地球から学んでいかなきゃいけないんだと思う。

まずプーチン、戦闘をやめてくれ。お願いだから。早く、早く。奪われ続ける命がこれ以上ひとりも増えませんように。祈ると知ると情報を見るとできることを探す。

すべての国の人が安全で安心して暮らせる日が一刻も早く訪れますように。 


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映画「ピーナッツバター・ファルコン」

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原題:THE PEANAT BUTTER FALCON
監督:タイラー・ニルソン、マイケル・シュワルツ
出演:シャイア・ラブーフ、ザック・ゴッサーゲン、ダコタ・ジョンソン

(内容を含みますので、これから観る方はお気をつけください)
































"病気であることと魂とは何の関係もない"


体温を感じる映画だった。

ザックはすごいね。
リングに立つ前のザックに言うタイラーの言葉が響いている。タイラーがあんな風に声を出すなんて。タイラーからあんな言葉が出るなんて(それは他でもないザックだったからで)。ザックと出会う前のタイラーからは想像もつかないほどの変化で、でもそれはずっとタイラーの中にあったものでそれがザックとの出会いによって表に現れただけなんだよなって思った。もともと持っているタイラーという人間の本質がザックとエレノアとの出会いになって関係を育んでいったのだ。焚き火を見ながらタイラーがザックに話した魂の話は自分に言われているみたいに感じて泣きそうになった。焚き火の夜は、ザックにとってタイラーがタイラーにとってザックがより何倍にも増して互いの存在が特別になった瞬間だったと思う。


タイラーはお兄ちゃんが大好きだったんだ。
そんなにうまく進めないし、上手に気持ちを片付けることなんて出来ないし、いつまでだって考えているし、忘れられないし、そういうことが誰だってあるだろう。タイラーは簡単には飲み込めないその事実をずっとずっと考えて生きている、そういう人間なのかなって思った。そして観てるわたしは、自分にもそういうところがあるから、少し似ているなと思った。前を向けよと言われることがあるけれど、前なんか向けるわけなくて忘れることだってできない。ひねくれているのかもしれないけれど。タイラーが思っていることはわからないけど、ザックと出会うまでのタイラーは、ずっと頭で考えているような表情をしていた。

そんなタイラーがザックと出会って、ザックと共に時間を過ごして。失っていたものが新しい形で育まれていくのを感じたんじゃないかな。温度を、新しい形で、ザックとの関係を通して、二人が育んだ温度が生まれた。育むって言葉がぴったりだ。だから、今度は自分がザックの力になりたい。ただ過ごすだけが時間じゃない。過ごした時間の長さとかじゃない。密度と温度と互いの心のやわらかさをみせること。二人のやり取りには温度があって、見ていて、ああ人間っていいなって心から思った。


そして人はほんとうに物凄い瞬間を目の当たりにしたときに唖然として言葉をなくすのだ。ザックはビデオを1000回繰り返し繰り返し何度も何度も見て、イメージしてきたんだと思う。ソルトウォーター・レッドネックのあの技を決めている自分の姿を。何度も何度もイメージしてきたのだ。あきらめず。周りに何を言われても。そのザックの持つ強さにタイラーは気づいたし、エレノアもだんだん知っていく。ザックはつよいな。そんなザックが怖いって漏らすシーン。ザックは言葉数は多くないし流暢にはしゃべれない。だけど、いつだって真っ直ぐに自分の想いを言葉に出来るすごい人なのだ。シンプルだけれど真っ直ぐに心と直結している彼の言葉には物凄い力があるのだ。人間の持つすごい力。言葉。言葉は自分が発しているようでいて、実は相手から引き出されていることがあるのだ。言葉は関係性の中で生まれたもの(ツール)だから。ひとりでは歌、叫びはあれど言葉は生まれなかっただろう。ザックはタイラーに出会って初めて知った喜びがたくさんあっただろうな。初めて感じたかなしみもあっただろう。

人の出逢いは宝物というけれど、特別だと思える人がいるということはなんて素晴らしいのだろう。自分の特別を大切にしたいし、誰もが自分の特別を大事に出来る社会に進んでいきたいし、誰かにとっての特別を大切にできる人間でありたいと思った。失敗するし、間違えるし、逃げるし、立ち止まるし、迷うし、途方に暮れるし、自棄になるし、どうしたらいいのかわからなくなるし、かなしくなるし。だけどそこに特別な人間の存在が灯台の灯りのようになって行く道を教えてくれるんじゃないかなと感じた。灯りは温度があって暖かいのだ。熱から離れて冷えた体は小さな暖かさにも熱を感じることができる。ほんのりと暖かくなるのを感じることができる。温度があれば生きていける気がする。

ドーナッツのメモ

言葉ってドーナッツみたいになってるの。言葉にすることでドーナッツの空洞の部分を描いているの。空洞の部分があることを言葉によって表しているの。ドーナッツの空洞の周りの部分が言葉なの。

2021年12月31日(金)大森靖子シンガイアズ(バンド編成)「ひっそりカウントダウン〜2022TOKYO〜」at 新宿 LOFTのアンコールにて靖子さんが歌った死神のあまりの凄さにいまだ記憶を反芻している

2021年12月31日の大森靖子さんのカウントダウンライブのアンコールで靖子さんが歌った死神のあまりの凄さにいまだ記憶を反芻している。配信だったのですが、あの言葉を失うほどの物凄い瞬間のことがずっと離れない。思い出して反芻しているということはわたしの頭の中で思い出しているのだから、あのときの時間とはもう別のものになってしまっているのだけれどあのとき歌う靖子さん観たという事実が(私が記憶を想起して新たに作ってしまっているから早く大森さんのライブに行きたい。私の体よ一緒にがんばろうな)2021年の最後に、生きててよかったと心の底から思った。心臓に矢が刺さった感覚になった。心臓に矢がぎゅういんと刺さってぎゅうってなるから痛いんだけど刺さってぬけないの。生きてて生きてきてよかったと思わせてくれる靖子さんの人間に触れてほんとうになんと言っていいのかまだうまく言葉にできないでいる。生きてて、あきらめないで生きてよかったって腹の底から思って瞼がうううってなった。体調故どうしても生で見られなかったことが悔しくてたまらないけれど、配信で現場へ行けない私に向けても届けてくれたこと、ほんとうに感謝しても足りないくらい感謝しています。音楽をどうやって届けるか心を砕いて実現してくださる大森靖子さん、大森さんチームの皆さんに2021年、ほんとうにたくさんの機会を届けてくれてありがとうございました。体が動けず現場へ行けないことがほとんどで、働いてない期間も長かったし、今もまだまだ少ない時間しか体が保たないから。靖子さん、靖子さんチームの方々がライブに行けない人にも、CDを買えない人にもどうにか大森さんの音楽に触れられるようにと届けてくださっているのをほんとうに感じてきた数年で。そのおかげで今日まで齧りついて生きてこれたから。だから、自分がお金という形で心の魂に触れる音楽をどこまでも誠実と魂と物凄い私にはわからないのだけれどとにかく物凄いことだと思うんです0から音楽を創るって。だからそのことに対する感謝とありがとうとこれからもあなたの創る音楽が聴きたいですって言うもういろんな気持ちを込めて、ちゃんとお金を払って購入したい。だけれど靖子ちゃんはグッズもたぶんファンの方のことを考えてギリギリ削って原価に近いお値段で出してくださっていると思うのです。だって、もっとかかっても絶対おかしくないのに!だから、そうやってあらゆる細部までファンの人のことを考えて心を砕いてくださる靖子ちゃんなの。まだ先になってしまうかもしれないけれど、ちょっとずつグッズ買っていきたいのだ。ちょっとずつ買ってるのだ。デザインもいつもめちゃくちゃ凝っていて素敵すぎるんだもの!文字とか細部がとにかく靖子ちゃんのグッズは凄い。それでいてファン心をくすぐるというか、これは靖子ちゃんのファンならほしいよ!!!!!!!って思うグッズを出してくれるのよ。何が言いたいかというと靖子ちゃんはすごいのよもう!!!大森靖子は音楽への愛、ファンの人への愛、大森さんチーム、大森さんの周りの人への愛がものすごい方なのだ。2022年、少しずつでもいいから私なりに大森さんに愛を伝えていきたい。もらったものがあまりにたくさんたくさん降る雪の結晶ほどのたくさんあってそのひとつひとつがどれも大切で大切で大事な宝物だから、もらったもの、愛と思いやりと感謝と尊敬をもって少しずつでもいいから返していきたいなと想います。2022年。何卒。粛々と生きる。

映画「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

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原題 "demolition" "解体"

時間がかかれども、一体いつそれが見つかるのか、見つからないのかわからなくても。解体しながら、変な自分がなんだか愉快で好きになりながら。そばにいる人に寄り添って共に時間を過ごしながら。そうして辿り着いた先があのメリーゴーランドで。それは綺麗じゃなくて、とても綺麗だった。見終わったあとにふつふつと湧いてくるピースのようなシーンたち。バラバラに見えたピースが最後にある場所へと辿り着く。それを可能にしたのは時間だったのかもしれない。探しながら藻掻きながら笑いながら泣きながら、そうやって過ごしてきた一日一日が。

彼はひとりではなくて、出逢いがあって。その出逢いがまた彼を違う場所へと連れていっていたように思う。共に過ごす彼らを見て、化学反応のように影響し合いながらも私たちは自分の人生を生きるしか出来ないのだということを強く思った。それが悲しくもあり、どうしようもなさであって、でもだからこそ隣にいられるわけで。存在出来る喜びみたいなものを感じた。存在は"present"で喜びなんだよな。一緒に過ごせる時間は特別な時間で。どんなに当たり前に見えたとしても、特別な瞬間なのだ。

私は物事を考えるのに時間がかかる人間で。たぶん10年とか20年とかずっと考えていたりするからそのことが嫌になる時もあったりして。でもこの映画を見終わって、それでいいのかなって思えた。考えている間はバラバラのピースに見えたとしても必要な時間なんだと感じられた。そこを通らなければ、彼でなければ辿り着かなかったこの作品の結末。彼の笑顔は清々しく写った。悲しみもわからなさも空しさも喜びも。全部抱えながら、彼は爽やかに笑っていた。

ハローグッバイ

私はもう大丈夫なんだと思った。いや、最初から大丈夫だったのかもしれない。大丈夫じゃないって自分を卑下していたから、必死にやろうやろうとしていたのだ。何かからの卒業はとても寂しいけれど、変化していくのが自然なのだからそのときが来たのだと手放すときが来たんだなと感じる。もう私は大丈夫だ。孤独の先にそれぞれが光る揺れるひとりひとりだからこその出逢いがあるのだ。
ハローグッバイ
それは愛してるだ。