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観劇 shelfドラマリーディング「バイオ・グラフィ:プレイ(1984)」の感想2

感想1はこちら
物語のおおまかなあらすじや、具体的なシーンの感想を書いてます。

shelfドラマリーディング「バイオ・グラフィ:プレイ(1984)」 - 本日のshelf♪ver.IMA


感想2 〜感覚編〜

こちらでは私の妄想を交えながら。この上演を観て、戯曲の内容はもちろんの上で嗅覚のような感覚的にキャッチしたものを頼りに書いていこうと思います。

観てない方にはなんのこっちゃかもしれません。ただ2022年に本公演があるようなので、何も情報なく観たい方には内容に触れるためこの先は読むことをオススメしません。先に読んでも問題ない方は、是非に。もし読んで面白そうだなと興味を持ってもらえたら、本公演に足を運んでみてください。きっとドラマリーディング公演とはまた違う、深さや広さや距離とてつもないものが待っていると思います。









演出家(ゲームマスター)は、キュアマンの未来のひとつのバージョンなのではないかと感じた。未来。


沖渡さん演じるキュアマンと川渕優子さん演じるアントワネットが、過去だとして。


綾田さん演じる演出家(ゲームマスター)は、未来と過去の間に存在しているように感じた。未来から来ていて、キュアマンを過去からある未来へと導こうと。そのためには変化が必要で。

演出家(ゲームマスター)は、キュアマンであり、過去のキュアマンからある未来を選択出来たキュアマンで。未来から、過去の自分へとやってきたのではないか。

まさに未来からきた演出家(ゲームマスター)という名で、キュアマンが新しい未来へ行く可能性を持つ場が今観た2時間30分(おそらく)のだったのではないか。と感じた。
これは観劇した私の妄想で、そういう風に作者:マックス・フリッシュが意図したのかはわからないけれど、そう感じた。面白かった!途方もない面白さ。



男性アシスタント、女性アシスタント。

名前はなく、あえて女性、男性としたその訳にも意図があるのではないかと思う。それは三橋さん演じる女性アシスタントと横田くん演じる男性アシスタントの関係がとてもフラットで対等だったから。
どちらも無理をしているわけではなく、極当たり前にフラットな関係性を築いていた。二人のやり取りや掛け合いは、見ていて聴いていて息がしやすくてとても心地が良かった。


比較すると、何故だかキュアマンとアントワネットの二人のやり取りは、見ているとなんだか胸がつっかえるような、息苦しいなと感じた。呼吸がしにくいというか。
それはそのはずで、二人の関係性はフラットなものではなかったから。

キュアマンが、アントワネットをひとりの人間としてではなく女性として、自分の思い通りに支配したい、ときには暴力を使い、女性とは男性が支配するもので、男性に従属するものだという考え方が刷り込まれたであろう状態で接していて。
アントワネットに対してそのように振る舞うことに、キュアマン自身はたぶんそのつもりはなくて。彼は彼女を愛していると思っているし、愛しているのだと思う。
だけれど、そこには男性社会が生んだ女性を対等なひとりの人間としては見ない支配欲が無意識にも刷り込まれていることが感じられた。

そこから新しい未来へ行ったのがマスターで、当たり前のように新しい未来を生きているのがアシスタントのふたりなんだと思った。私の妄想も大いに入っているのかもしれないけど、そういう風に見えた。


対して、アシスタントのふたりの関係性は息がしやすかった。でもキュアマンとアントワネットのふたりの関係性は息がしにくいと感じたのは、私が女性だからだろうか。男性は、あまり息苦しいとは感じないのだろうか。(関係が上手くいっていないぎすぎすした感じやきまづさからくる息苦しさをよそに置いてみて)
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ここも他の人の感想が気になる。


アントワネットが、今までずっと積み重なって氷の下にあったものが砕けて出てきたように声をあげる場面があったのだけれど。
(主語を大きくしてしまうけれど)男性は、彼女アントワネットがなぜこんなにも怒っているのか、悲しんでいるのか、それがわからない人ももしかしたら多いんじゃないかなと思った。また彼女が怒ってる。って思ってなんで怒っているかわからない。本当にわからない。と。
そのくらい男性社会が長い年月(何百年、千年?)も男性が支配する社会が続いていてそのくらい無意識に染み込んでいるのだと。


作者は、男性社会の問題点をキュアマンとアントワネットという個人の関係性の中で。キュアマンと演出家(ゲームマスター)との間の中で。描いていた。

さらには私たちが誰をも支配・加害・暴力・従属のないフラット、対等な関係を築くことが出来る、たどり着ける未来として女性アシスタントと男性アシスタントのふたりを描き。

未来から過去へ来た演出家(ゲームマスター)にキュアマンの行末を任せ、なんとか新しい未来(それは男性社会からの脱却。女性はもちろんだが、男性自身も脱却すること)へと歩を進めるようマスターに託したんだと感じた。

なんとか、新しい未来へ進んでくれよ、頼むぞと願い・祈りを込めて。
作者からのそういう思いを綾田さん演じるゲームマスターは背負ってるように感じた。

作者からマスターへ。
つまり、作者からキュアマンへ。

この戯曲の中では「何度やり直してもいい」という特別なルールを与えて。

何度もやり直すことが出来たなら、ひとりの人間(男性)が新しい未来へたどり着けるかもしれないと考えたのではないだろうか。

マスターは必死だった。

演出家(ゲームマスター)が男性キャストである。ということに演出として(戯曲上の指定があったのかわからないが)
キュアマンと同じ男性であるということがとても重要な要だと感じた。男性が男性に対し導き、働きかけていくこと。 それは自分だから。新しい未来へ行った自分から過去の自分へと。


マスターの彼は、キュアマンに対し何度も必死に伝えていた。「選択する自由があるんですよ」と。そして沖渡さん演じるキュアマンがある場面をやり直したとき。

キュアマンがアントワネットを殴らない選択をしたとき。カップを叩き割らなかった選択をしたとき。

綾田'マスター「良いですよ!違う選択ができるじゃないですか!完璧です!」とキュアマンをとても褒めていたこと。

沖渡さん'キュアマンが声を荒げるたびに、
綾田'マスター「どうしてそう大きな声を出すんです。もっと普通の声で言うんです。」とその度に咎めて言っていたこと。(台詞部分は私の記憶で正確なものではないです)



でも作者は、男性社会と女性のことだけではなく人間というものを描いている。
それが凄いって心底思う。それがこの戯曲の魅力なんだと思う。

人間が人間と出会い、関係を築き、時間を共にし、いつかそれぞれが死んでいく。その中で出会う自分ではない人間、に対して、同じように尊い命を持ったひとりの人間として対等な関係を築けることが人間にとってとてつもなく重要なんじゃないかと。


そしてplay:遊び。

遊ぶことの楽しさを描いている。演じる、模倣するという遊びが持つ喜び。楽しさ。演じているからこそ見えてくるもの。本質を浮き彫りにする力。真実。嘘を嘘と暴く力。自分じゃない者の視点に立つ。もう一度、再現してみる。自分が自分を演じるとどのような作用をもたらすか、どうなるのか。起こってくるフィードバック。視えてくる情景。

そういういろんなものをいろんな角度から感じながら観ていた。ドラマリーディングを聴きながら頭の中に落ちてくるテトリスを組み立てるような、迷路を進んでいるような時空が飛ぶような面白い感覚になった。

視覚には俳優が写し出す場面の情景が視えたり。時空間的に今自分がどこにいるのか点がわからなくなる時間と空間を飛んだような、そんないろいろを体と頭をフル回転で使って体験した。感じた時間だった。



私の解釈・妄想まとめ

□過去(キュアマンーアントワネット)

●過去と未来を繋ぐ。過去から未来へ行って、未来から過去へ来た現在地
(演出家(ゲームマスター))=未来から来たキュアマン(私の妄想)

◇未来(アシスタントのふたり)


ドラマリーディングの座っている並びの関係性から、よりそういう風に視えて感じたのだろう。私の妄想混じりの感想。

受け取るもの、考えるものがたくさんあって観た直後すぐには言葉に出来なかったのだけれど。まだまだ語れて文字数がまとまらなくて。それはすごいことで、なによりの喜びですね。何かを観て聴いてたくさん話したくなるのは、凄まじいものを観たという証なのだ。



〜補足〜


沖渡さん演じるキュアマンは苦しんでいた。あれは男性の苦しみであり闘いなんじゃないかと思った。

染み込みすぎた男性のあるべきとされる行動・慣習、思想からの。

だから加害行為を一切せずに行動(ふるまい)としては完璧になったあとも、沖渡さん演じる彼キュアマンは自分の思考に苦しむ。

加害の行動を見直すことと、縛られている考え方についても変わっていかなければ苦しみはなくならず一度は変わったはずの行動も時が経てばまた元に戻ってしまうだろうと感じた。

キュアマンは狭間にいて、ゲームマスターに変化を促されながらここまできている。

沖渡'キュアマンは簡単に人生をやり直すことはしないし、真剣に考えて悩んでいた。すごくその苦しみというか渦中にいる彼の姿を沖渡さん’キュアマンからすごく言葉じゃない部分の表現ですごく感じた。


綾田さん演じるゲームマスターが一生懸命沖渡さん演じるキュアマンに問いかけていて。
それはゲームマスターにとっても彼キュアマンが過去の自分であり、または油断するとすぐにはまってしまう思考回路を持つ男性そのものだからではないだろうか。

横田くん演じる男性アシスタントの三橋さん演じる女性アシスタントへのフラットな関係性を当たり前のこととして築ける姿に、

綾田さん演じるゲームマスターの必死で一生懸命変えることを、変わることを、選択することを促す姿に、

沖渡さん演じるキュアマンの何度も人生を戻りやり直し、変えることに失敗しながら、マスターに支えられ励まされ導かれながら目を凝らし自分の人生を見つめる姿、新しい未来へと進む道を手探りで探す一歩出してみては立ち止まるけど進もうとする姿に、


私は、言葉にならないものを感じた。喜びと安心と、抱えている苦しさと無意識に入り込んだ意識から自由になることの難しさと、根気が必要だということと、それでも新しい未来に向かおうとすることは不可能じゃないっていう事実を思った。


やり直そうとする何度も同じ場面を繰り返すなかで。

キュアマンは彼から欠落していたと思われる彼女の意思を突きつけられる。アントワネットは、誰にも支配されない支配できないひとりの人間であるということ。


この場面でキュアマンは唖然、呆然としながらも、それでも何か新しい未来を掴もうとなんとかならないかととまどいながらも探そうとしているように(キュアマンと演出家が)私には見えて感じられた。


それは諦めとか諦めないとか存在している言葉で言い表すことができる前の言葉にならない言葉で表現できる前の状態に沖渡さん'キュアマンの姿があった。


その姿それがこの戯曲の持つ絶望であり希望であり核の姿なんじゃないかと思った。

わかった風でもなく、開き直るでもなく、沖渡さん'キュアマンは見つめていたから自分の人生を懸命に目を凝らして見つめ直していたから。

新しい未来を新しい選択を必死に探しているように感じた。だから、優子さん'アントワネットは、そんなキュアマンが何度も何度も場面をやり直すことにつきあってくれていたのではないか。

それは彼女アントワネットが、新しい未来へと行ける可能性を、綾田さん'演出家(ゲームマスター)と同じくらい、いやもっとそれ以上に切実に切実に願って、感じていたからではないだろうか。

最後のあそこが
本当の始まりだと思った。

戯曲が書かれたころから言うと、2022年はもう未来に入っている。新しい未来を生きる現在はどうだろうか。男性アシスタントも演出家(ゲームマスター)もキュアマンもいる。女性アシスタントも、アントワネットもいる。

まだまだまだまだ過去の染み込みは強い。

演出家(ゲームマスター)
この戯曲において導く人なのだ。
新しい未来へ。

それは
現在地にいるキュアマン自身なのだ。