言葉と思考・観たもの感じたもの🎹🌼🌿🌷🐦✨

演劇・映画・音楽を観た感想を書いてます。日記のような思考の記録もあります。

トークセッション「実践することの輪郭を確かめる」

(写真は今回の参加してみて感じた私のイメージ。葉っぱの上の雫が実践。少し引いたカメラの視点が実践を考える)

 

つい先日、トークセッションなるものに参加してきました。とても面白くて、興味深い時間だったので感想を記録に残したいなと思い書いてみます。

 

観劇、音楽のライブ、映画館以外でこういう場にあまり参加したことがなかったので。演劇を観たり、音楽のライブに足を運んだりとはまた違う感覚で新鮮でした。ちょっぴりどきどきしました。

 

今回何で参加したのかと言いますと、体調など諸々の事情をはぶくとして。

もともと意識してなかったのですが、私はわりと日常から勝手に哲学的なことを考えてしまう人間なんだっていうことを何年か前に気づかされまして。

どこかで哲学というのを学んだということはないのですが。

ひとつ記憶にあるのは、

高校の時に、倫理の先生でとても面白い先生がいまして。ピーターという名前のうさぎを飼っていて。そのうさぎの話だったり、授業中にする先生の話が面白くて。

あるとき授業で、サン・テグジュペリの『星の王子さま』の一節を話してくれて。

 

"さっきの話を言おうかね

なに、大切なことは目には見えないってことさ"

 

この有名な一節を何度も暗唱しながら、先生はにこにこしながら机の間を練り歩くんです。

その先生の話し方、声の感じ、表情が今でも思い出せるくらい残っていて。

当時は高校生だったから、今とはまた違う受け取り方をしていたと思うのですが。何度も繰り返す先生の声を聴いてるうちに、この一節がすごく好きになって。

 

そんなことがあってか、もともと私がそういう性質を持っているからか、両方な気がしなくもないですが。

この先生の読んだ言葉が私の哲学のはじまりというか、興味のきっかけになっていて。

 

そんなこんなで、もし諸々が合えばお話を聴いてみたいなと思って足を運べたのでした。

 

ここから、今回のトークセッションの紹介を簡単にします。

 

実践することの輪郭を確かめる
─ 哲学プラクティスとアートプロジェクト

 

登壇者:長谷川祐輔、阿部七海

ゲスト:阿部ふく子

主催:哲学のテーブル

 

 

御三方によるトークセッションということで、なかのなかのというカフェ・バーで開催されました。

 

アーティストとの共同制作、アートプロジェクトの活動、地域に根ざしたアトリエにて哲学対話を開いたり、机の上の文献研究だけではなく、実際にひとと触れ合いながら人間活動の中で哲学を用いてさまざな活動をされている長谷川祐輔さん。

著書:哲学するアトリエ

(素敵なのでぜひ)

 

 

 

アートプロジェクト〈HAM〉の代表で、つくば市を拠点にさまざなアートプロジェクトを行っている、哲学のテーブルの理事でもある阿部七海さん。

 

新潟大学人文学部准教授で近代ドイツ哲学、哲学教育を専門とされていて、地域のさまざまなコミニティや小学校などの学校と連携して哲学対話を推進されているゲストの阿部ふく子先生。

 

この御三方が今回のテーマである「実践することの輪郭を確かめる」ということに焦点を当ててお話してくださいました。

 

(阿部ふく子先生の授業受けたいって思いました。もっと知りたいって思う時間でした)

 

とても面白くて、興味深くて。もっと深めたい知りたい学びたいと思うことばかりで、刺激的な時間でありました。

 

哲学者は、なんの専門家なのか?

参加者の方から出た疑問に対してのふく子先生の答えが、かっこよくて。

あえて言うならば、"問い"の専門家である

問いのスペシャリストだと。

そのあとの長谷川さんが補足的にお話されていた、これは誰もができるわけではなくって、訓練によって、支えられていると。それがすごくそうだよなって自分の中で腑に落ちまして。まさにスペシャリストだなって思いました。先人の哲学者の人のこと、知りたいって思いました。

 

 

投げかけられた小石(問い)が、受けたひとの(私の)からだの中できっかけと刺激になり、ぽーんと波紋のように広がって考えが水の底から浮かんでくる。その浮かび上がってくるものを、拾ってメモに書いて。そんなふうにしながら聴いていました。

 

今回は、長谷川さんが実践を共にしてきた中で一度立ち止まって考えてみたいこと、プロジェクトということが気になっていることなど実践を重ねてきた時間を踏まえての今考えたいこと、考えていることの現時点での経過発表となっていました。

 

長谷川さんのお話を土台に、阿部七海さん、阿部ふく子先生がそれぞれの活動を紹介しながら長谷川さんの議題(と言っていいのでしょうか)と繋がってくる部分や重なる部分についてのお話してくださり、とっても面白かったです。

 

実践すること

 

予期せぬ出来事は、いつだって起こることについての七海さんのエラーの話が興味深くて。どんなに準備を重ねても、起こりうることの方が自然で。逆に言えば、未来を完璧に予測しきることはできなくて。

そういう意味で、"実践"というのは常に動いていて、「動」で、実践について考えることは止まっていて、「止」なんだな。と振り返りながら書きながら思いました。

 

ここでは参加者の方へ、問いを投げかける場面があり。それを受けてふく子先生がお話されていましたが、時間軸で捉えたり、色んな捉え方が考えがあるなと普段あまり意識して考えない(そもそも、実践というワードが自分からはあんまり出てこないので)考えてみるのが面白かったです。

 

実践するとは、、?

 

という問いに対して。参加者の方が、お酒を飲まないことを実践するという、やらないことに対して実践という言葉を使いますということをお話されていて。

 

実践しないことを、実践する。実践するというと、やることをイメージしがちですが「やらないことを実践する」っていうのが、すごく面白いなと感じました。

その人にとって、やらないことの方が強い意思を必要とするからなのでしょうか。実践するっていうと、ちょっと強めの覚悟、強さを感じる言葉だなと感じました。逆に、ふにゃふにゃな強くない実践するも、想像してみたら、かわいくて魅力的ですね。

 

今回テーマになっている実践と実践することを考えるですが。

参加者の方がお話しされていた過去、現在、未来という時間軸で捉えることもできるし。

動と止 実践=動 動いている

実践について考えること=止 止まっている

動と静の関係と捉えることもできるし

(動と止まっているの間にも、ゆっくりと動いているとか、動きながら止まっているとか、きっと色々あって。止の中にも、動があったり)

 

飲んだり食べたり味わうのは、実践しないとわからないという参加者の方のお話から、実践を→渦中と言い換えることもできるなと。

実践する=渦中にいる

実践することを考えるとは、渦中ではない状態で、(未来のもしくは過去の)渦中について考えること、と言えるのではないかなと思いました。

 

最初に載せた葉っぱの写真を例に。空間的に捉えてみると、同じ時間軸の中に両方を存在させることも可能なんだと感じて。(葉っぱの上の雫が実践で。雫からもっと引いて、俯瞰しながら雫を捉えたカメラの視点が実践することを考えることと捉えることもできる)

 

色んな捉え方、イメージが広がって面白いです。

 

考える前に動いてる場合は、実践について考えるというよりも、後から振り返る作業になるけれど、それも実践について考えることになるから。

考える前段階を限りなく減らして実践に乗り込むこともできるし、逆にどこまでも考える準備段階を長く持たせることもできたり、規模感や関わる他者、他者のスピード感、単純に自分の動けるキャパシティだったり、人が間に入れば入るほどその分時間も必要になるし、あらゆるバランスでやりながら探りながらひいひい言いながら、色んな大変な困難を乗り越えて創られているのだということを認識すると、すべての創る人たちにちゃんと対等な対価を払わねばおかしいよねという思いが沸々としてしまいます。

 

ちょっと横道に逸れましたが。

眼の前にあるもの、その時間だけが対価じゃなくて、そこに至るまでのありとあらゆる時間と経験とが入っていることを受け取る側は理解しているっていうことが、当たり前になったらいいよなっていうことをすごく思いました。自分への戒めも込めて。

 

自分の言葉とは

 

ふく子先生の、言葉はコミニケーションの媒介だから、そもそも自分のもの、他者のものっていう風に分けられるのか…?自分の言葉なんて、最初からはないんじゃないかっていうお話だったり。それを受けて、出会った他者の言葉が自分の言葉を形成するように、出会った人たちが自分を形成しているということを長谷川さんがお話したり。

最初の哲学者は、智識・情報は、自己形成のために使ってほしいっていう風に書いていたとふく子先生が話されていて。そういう風に哲学者自身が望んでいたんだということにも私は感動して。

 

はたまた、自分の言葉で話すことを求められる場と、逆に引用して先人の言葉を話すことが求められ、喜ばれることの違いだったり。(関係性や、場、目的、その人の得意不得意だったり色んな状況によって、変わるよなと感じました)

 

プロジェクトというものについて

 

お話を聴いて思ったことは。

 

人間って、プロジェクトとして未来を考えることで今現在を動くことができたり、まだ存在しない未来について他者と考えたり語ることができたり、架空の想定未来を可視化するための枠組みというか、メガネみたいなものなのかなと思いました。

プロジェクトというメガネをかけると未来が見えるみたいな(笑)メガネがあれば、自分もかけられるし、自分以外の人もかけることができる。同じ未来を見ることができる。そんな道具というか装置なんだなって感じました。人間の発明ですね。

 

他にも哲学者の引用からの言葉や、気になることがたくさんあり。今回触れただけでも新しい見え方が広がりました。

 

参加者の方が、哲学を学んでいるひとは、2000年前のギリシャの時代を生きていた哲学者の言葉を知っていて、アドバイスする時にそういう視点から話したり伝えることができるとお話されていて。

これがめちゃくちゃ面白いなと思いました。本を読むことに似ているのかなと思うのですが。先人の言葉を頼りに生きてることってあるけれど、2000年前の古代ギリシャの人の言葉は、全然知らないのでどういう視点でどういう感覚なんだろうって気になりました。

 

実践をしながら、実践について考え、また実践をするということをやり続けることは、※PDCAサイクル(計画Plan-実践Do-評価Check-改善Action)に似ているなと思いました。無意識にやっているのかもしれないけれど、質の向上の基本になるからこれをやればやるほどより深みにいける鍵だと思いました。

(※保育士試験対策講座(四谷学院)保育の心理学-2.保育実践の評価と心理学より)

 

きっと2時間強の時間内では、語りきれないことがたくさんあって。今回発表するためにピックアップしたものは、本当に僅かでその後ろに膨大ななんだかすごい後ろにたくさんの考え、時間、言葉、場、とにかくたくさんのものがあるなと御三方から感じられて。全然語りきれない、語り尽くせてない、まだまだ全然足りないっていう感じがまた面白かったです…!

 

プロジェクトの実践と、実践することを考えることそのスピードによって膨大な事務作業、やらなければいけない手続き、事実としての作業量の多さで忙しくそれはもう忙しくなり、何かこぼしているものがあるようなそんな感覚がすごく確信的に長谷川さんにあるのかなと思いました。

その溢れ落ちていたり、飛ばされてしまったり、隠されていたり、あるのに目を向けてもらえていなかったり、捨てられてしまったり。そういうものたちを、哲学を使ってキャッチして、他者の目に見えるようする、価値を見いだすことが、きっと哲学には可能で、そこに哲学の役割があるんじゃないかと。そんな風に考えているのかなと本を読んで、今回お話を聴いて感じました。それはとても素敵なことだなと思いました。それによって、また新しく見えてくることがきっとあって、そこに掬われる思いがあったり、掬われる人がいるんじゃないかと思いました。私もそういうひとりかもしれません。

 

問いがあるかぎり、考えることは尽きませんね。哲学は抽象度が上がるというお話もありましたが、思考の旅はいくらでもできるので、泥沼にはまりやすい危険が隣にあって。それを知っていても、はまるので怖いよなと、そんなことを思い出したりもしました。

 

からだがあれば、迷宮沼から戻って来られるから、頭だけで考えないことはどんな分野にも共通しているんじゃないかなと感じました。だから、考えが広がり刺激され、そのあと還るのはやっぱりからだなんだなと。

 

色々、自分の中で今このタイミングで参加できてよかったです!

 

お話を聴いているお客さんひとりひとりがそれぞれ自分の中で考えたり思ったり、うーん、、ってなったり。そんな様子を体感できて、自分ひとりで聴くのとはまた違うトークセッションだからこそのものがあって、とても興味深い時間になりました。

 

帰りは真っ暗で、気温が下がり

ひんやりとした満月の一日前の夜に。

 

2023.10.28