言葉と思考・観たもの感じたもの🎹🌼🌿🌷🐦✨

演劇・映画・音楽を観た感想を書いてます。日記のような思考の記録もあります。

shelf×HeddaGabler×巨大な手

9月25日。

ヘッダ組、中国出発前。最後から二番目の稽古の日。通しを観に行ってきました!すぐには言葉にするのが難しかったのですが、メモ的に春日の感想を書いていきます。


テスマン・ズッキー′さんが爪いじったり、本のページをめくったり、あの一連のズッキーさんの佇まいとすんごい静かな集中力やわらかくて深い呼吸が、学者テスマンの姿を感じさせられて、ああ、テスマンって研究者なんだなあって。研究者の人の対象を見てる眼、あの集中力とかすごい好きなんですが、それがめちゃめちゃテスマンすごい良い学者なんだろうなっていうのを感じさせました。あと純粋さ。ズッキーさんの佇まいからでっかい本棚と机があって、ちょっと薄暗くて埃も感じる古書部屋でひとり本を漁っているのが見えました。俳優から景色や情景や周りの風景が見えるのがたまらなく私は大好きで。別にセットも本棚も机も本も実際にあるわけじゃなくて、俳優の体から呼吸からお客は感じて見えるんですよ。(私が目指す究極はここにあって。ズッキーさんにまじでうわあああってなりました)



ブラック判事・王子′こと横田′くんの変態さ。



絶望しながら希望を見ているように感じた。希望があって、きっと永遠に希望にそぐわないという現実を知ってちゃんと現実を見て知って感じているから、あの中でヘッダだけが絶望出来るっていうか。ちゃんと絶望出来る。 ヘッダ優子′さんは誰が悪いとか誰かを憎んだり恨んだりとか個人にではなくて、もっと大きなものに抗っているように見えた。言葉を変えると、挑戦しているようにも感じられた。最後のヘッダの死は人間への挑戦というか。ヘッダの死をもって、人間はヘッダの絶望を知る得るか、という。絶望からどう始めていくかっていう挑戦を今されているような。そう感じられた。怖い。イプセンからの挑戦。勝つにはたぶん絶望しながら生き続けることで、大森靖子ちゃんが言うように孤独を孤立させず孤独を持った人間ひとりひとり、孤独だからこそ行けるところがある、っていうか。そんなことを考える。


でも絶望という意味で言うとレーヴボルグ・沖渡′さんも、エルヴステート婦人・誠子′さんも、リーナ叔母さんもテスマンズッキー′さんも、それぞれ絶望しているんだよね。ブラック判事′は絶望の末に彼なりに辿りついた場所にいる現在という感じがして、過去に絶望を経験しているような。じゃあヘッダの絶望と何が違うかっていうと、なんだかヘッダはもっと大きな真実というかものに気づいてしまったように見えた。それ人間が人間と共に生きるっていうのはこういうことなんだということをヘッダは知ってしまったように感じた。こういうことのそれが何かは上手く言葉に出来なくて、感覚的なものでわからないんだけど。それ知ったら生きるの生きていくのつらいよね、っていうものだと思う。

通しを観ながらエルヴステート婦人・誠子さんやリーナ叔母さん・誠子さんの生き方はある意味でとても正しいのだと感じた。生命力があってエネルギーが溢れてくる瞬間が本当に溢れてくるエルブステート・誠子′さんが私はとても好きだ。生き甲斐、生きていく意味。人生様々なことが起こるがその都度生き甲斐を見い出し、行動し、生きていける彼女の姿はヘッダとの差異を浮き彫りにする。

またレーヴボルク・沖渡′さんがすごく繊細な絵を描いているように感じられた(実際に絵を描いているわけではなく、これまた私の感じたイメージなのだが)すごく暗い灰色やどす黒い色からオレンジやピンク、きらきらとした水色や白、ああこの人はなんてたくさんの色を持っているんだろうと思った。色がある分、灰色のヘッダとの差異がエルヴステート夫人とはまた別の見え方で浮き立たせる。

女・ゆか′さん。ゆかさんが人形のように感じられた。器。陶器の器。色はグレー。そのゆかさんが中央にある椅子に座り、話始める瞬間はとても劇的だった。ゆかさんがしゃべっているときに、上から大きな手が降りてきた(舞台に触発され浮かんできた私のイメージなのだが、ズズズッとゆっくりと降りてきた巨大な手が見えた)それはイプセンの手だと思った。手が心臓にまで伸びてえぐられる感覚だった。

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ある小さな範囲から動けない、そんな風に感じられたヘッダ・優子′さん。開いたと思った扉が次々と閉じていって出口がなくなる。八方塞がり。そんな閉じ込められる感じがあって。どんどんと居られる範囲が小さくなっていって、ラストに繋がるような。そんな中、あるシーンでヘッダ・優子′さんが花を重ねて積んでいくところがあって。もうちょっとこうかな?というように(たぶんヘッダ優子′さんなりの美学があって)花を積んでいき、小さなピラミッドのように積み終えた自分なりの美学で積み終えたヘッダ優子さん′の「ん」という小さな微笑み。ヘッダの一瞬の幸せであり満たされた瞬間に感じた。それがあってだからこそ、ラストとで自分のこめかみを打ち抜いたヘッダは自分(私)とかけ離れているわけではなくて、誰もがヘッダであり、誰もがヘッダになり得るんだ、と思った。今私が死んでないのは、偶然と、ただここに銃がないだけで。たまたまヘッダはガブラー将軍の娘で、ずっとそばに銃があって、ガブラー将軍は既に死んでいて。


時代に関係なく人間が人間の中で生きるということはどうことなのかということをイプセンは描いているんだなと感じた。だからどれだけ時間がたってもイプセンの戯曲はいつも新鮮で人間という存在をえぐるのかなと思った。一見考えずとも脇に置いたり見ないようにしたりはたまた気がつかなかったりそういう暮らしの中で、イプセンは人間を突き付けてくる。じゃあ私は、どう生きようかと思わされる。

私は今日の通しにお金を払いたくなりました。もしお金に換えて表すとしたら、見せてもらった感動をお金というものに換えて伝えるとしたら…4000円。照明も道具も字幕も諸々揃っていざ会場で上演となったら、実際に体験していないけれど6000円、8000円…の価値があると私は感じました。実際に見たらもっととなるかもしれない。お金に変えられるものではないけれど、自分にとって何に価値があり、何にお金を払いたいか考え続けたいです。(それは応援したい、また良いものが見たい、良い時間をありがとう、そういう気持ちを伝えることができるひとつの表現であり、意思表示なのかなと思う)金額に換えるならそのくらいの値段を払って観たい。そう思う私にとって価値のある時間だった。そして、劇中の沈黙がもう豊潤でたまらなくて。沈黙がすんごいおしゃべりっていうか。微生物に溢れたふかふかな土のようで。芸術だった。手が降りてきたあの瞬間は、言葉に表しがたいなんて言ったらいいのかわからないけれど不思議な体験だった。


中国で新たなお客さんと出会い、さらにふくよかに豊かになっていくのを楽しみに日本から念を込めて送ります!ばびばびびびび!

最強で最高のチームに乾杯✨✨✨✨✨✨