言葉と思考・観たもの感じたもの🎹🌼🌿🌷🐦✨

演劇・映画・音楽を観た感想を書いてます。日記のような思考の記録もあります。

ゆうれい

なんだか勝手にだけれどわたしの魂ってやつも作品といっしょに中国へくっついて行っているような。わたしのカラダ本体は日本にいるんだけどね。魂ってやつは中国にゆうれいとしてね、居てもいいんじゃないかと。そういうふうに思ってます。


みつはしさん
横田王子
おきとさん
森さん
ゆかさん
優子しゃん
矢野さん
則武さん
陽子さんの衣装



いってらっしゃい〜!!!!!



(あいついねーなって意識してくれる人がいる限り我生きていける的な。的な。嬉しいことよのう。出来るなら本体で一緒にいたいけれど、その日がくるまではゆうれいでいるのもわるくないかもしれない。かもしれない、ね)

四月のつぶやきと意思表明

療養を経て治るものじゃないから今だにしにそうにつらい場面はあるんだけど、自分の井戸を掘ってる作業をしている感じがあって、水が溢れてくる深さまで掘ってきたっていう感覚があり好きな世界が増えていて。世界が人間が好きになっている。自分のことも許せるようになってきたのが大きいと思うのだけど、こんな自分のことも好きになっている。

靖子ちゃんを追いかけていたら素敵な素晴らしい音楽や人に出会って好きなものが増えている。時間の感覚がたぶん私は特殊だと思うから、また会えるのが何十年後になったってまた会えたねって笑いたい。また会えなかったって存在を意識しながら生きていたいし、また会えるのを楽しみに今日を生きたい。

緑が芽吹く季節は色が濃く鮮やかで生命力に溢れていて眩しすぎると感じたりもするんだけど、好きな季節だ。外に出て風を感じて歩いていると風の匂いが緑の香りがして好きだ。私の住んでいる場所は子どもがたくさん遊んでいて声が聞こえてそれはすごく光っていて私は勝手に癒されたり感動したりしている。

これからの季節を楽しみながら、ちゃんと目を開いて生きてたい。という今日であります。

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あくまでこのつぶやきは個人的な話で。今の日本の社会で起きている出来事や制度や色々もうクソヤロウですね。これからますます見極める目を持つこと、きちんと自分の頭を使って考えること、すぐに出る答えなんて大したことはない必要なのは根気よく忍耐も使いながらいかに耳を傾け冷静に見極め少しずつでも歩を進めていくか。そして守りたい人守りたいもの自分含めちゃんと守れる人間でいたいです。及ばないことの方が多くて決してちゃんとなんかしてない私もクソなわけですが、もう大人であり人間であり言葉を持ち言葉で伝え合う術を持っている以上、あがきながらでも考え続け子どもたちが生きる未来をわずかでもちゃんと人間でいられる社会にしていきたいです。靖子ちゃんが世界を増やして具現化して示してくれているように、私は私が出来る具現化を0.2mmでもいいから示していきたい。小さな黄金のお米粒。

相思相愛を越えたマジックミラーで乱反射し合って愛をビッグバンで宇宙にして基地ガイアで男とか女とか関係なくなって互いに生きて重ねてきた日々を抱きしめて愛し合ってる大森靖子さんとファンの方に絶対なる感謝を込めて。

ハッシュタグ#大森靖子バスツアーを追って

深く静かな底のまた底へと潜ったときに見える暗闇の穴は同じ誰かへと繋がるトンネルだろうか。誰もが携え抱えている共にしている孤独を誰にも触れられないその人だけの固有の二つとない尊い尊いものだとその存在をしずかに受け入れることが出来たなら。同じように尊い尊い孤独が己にもあるのだと気が付く。どんなに共感し似ていると感じたとしてもぴったりと同じではなく同じは有り得ない。なんだかそれは悲しいようにも感じられるのだけれど、それが唯一の自分だけの孤独なんだろう。その唯一の孤独があるから、誰かのあの子のあの人の懐にも触れられない唯一の孤独があるのだと想像することが出来るのだとしたら、この孤独はなんて尊いものだろう。そうやって使っていきたい、孤独を。しずかに見つめた先にあるパーティーがまるでキラキラ光る魔法の世界のような大森靖子さんのバスツアーが現実として手作りでここにあるよと魅せてくれた大森靖子さんとファンのひとりひとりの想いとが合わさって雨上がりの虹のようで。#大森靖子バスツアーはTwitterという空にかけてくれた虹だった。私はバスツアーに参加することが体調面で難しくて、でもTwitterにアクセスは出来るからタグを追って、疑似体験させてもらったり宴会の雰囲気を楽しんだり幸せな空間に自分もいたかのような気持ちにさせてもらったり嬉しくて楽しくて。私は飛行機雲を見るのが好きなんだけど、飛行機が駆け抜けた跡が雲になって消えるまでの間その軌跡を追えるのが、ああ飛行機雲みたいに靖子ちゃんとファンの方が生み出した奇跡を追ってるって感じられてバスツアーの間も終わってからもタグを追いながら楽しくてとてもしあわせだった。どの写真や動画やつぶやきも靖子ちゃんへの深いそれぞれのの愛情と戸惑いや色んな想いを抱えて参加して見えた景色や時間が靖子ちゃんとファンの方たちと靖子ちゃんと準備を重ねて(きっと何度も打ち合わせしたり起こる色んなことを想定して安全に楽しんでもらえるように特別を特別に特別であれるようにと見えない配慮や積み重ねがあっての当日だったと思う)スタッフさんたちみんなで創り上げた時間と空間というのがひしひしと伝わってきて、相思相愛を可視化したのが靖子ちゃんの現場だなって思う。私は好きなものを見ている時間がいちばん好きなのだけど、私は靖子ちゃんとファンの人との関係が好きなんだなって思った。相思相愛をすら越えたマジックミラーで乱反射し合って愛をビックバンで宇宙にして基地ガイアで男とか女とか関係なくなって互いに生きて重ねてきた日々を抱きしめて愛し合ってる靖子ちゃんとファンの方のその乱反射を見てるだけで幸せしかなくて、にやにやしながら泣いてしまったりしている。いつの日か私もバスツアーに参加し乱反射し合えるのを夢に加えておばあちゃんになってもいいから叶えるのを楽しみにして毎日を手作りでがんばります。ぎり大丈夫の感じで大丈夫じゃないけどぎり大丈夫で生きていようと思います。絶望の淵に会いに来てくれる超歌手大森靖子さんとひとりひとりの愛し方でめんどくさい自分ってなりながら絶対なのに絶望したり絶好調で大森さんを愛し守り共に現場を創り乱反射し合っているファンの方に感謝を込めて。いつの日か現場で直接お礼が言えますよう。一緒に大森さんを応援できますよう。大森さんに愛してるが伝わりますよう。いつももらってばかりだから少しでもお返しができますよう。


❣❣❣❣❣絶対大森靖子❣❣❣❣❣

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人は何を見たくて観客となるのか

人が抗っているのを、悩んでいるのを、迷いながら決断しているのを、逃げているのを、愛しているのを、憎んでいるのを、ゆるせないでいるのを、苦しんでいるのを、楽しんでいるのを、喜びであふれているのを、どうすればいいかわからず立ちすくんでいるのを、見つめるしかできないでいるのを、誰かの役にたちたいと思っているのを、やさしさに救われた瞬間があることを、喪った悲しみを、止まらない時間と現実に必死で生きているのを、うまくいかないのを、恋に落ちたのを、ともだちができたのを、乗り越えようとしているのを、忘れないようにしているのを、忘れてしまうのを、忘れられてしまうのを、闘っているのを、過ちを犯してしまうのを、つぐないをしているのを、残酷になれるのを、あきらめたのを、あきらめられないのを、伝えられないのを、うまく届かないのを、達成したのを、失敗しているのを、転んでいるのを

お客さんは観たいのではないか。
人間の可能性。を観に来ているのではないか。ありとあらゆる人間の可能性に触れたくて観客となるのではないだろうか。人間に触れたくて足を運ぶのではないだろうか。ひとつの解。

出発点

ここからどこにいこうか。どうやらどうやら2018年を私はちゃんと生きてきたみたい。人が生きてるってほらちゃんときれいだったよね。生き抜いたみたい。人とさよならもまたねもありがとうもごめんなさいも。いつだって私にあるのは今日で、終わる何かと共に始まる何かが混在している。ここからどこにいこうか。ゆっくり自分なりにでいいから拾って掬って最終的に手放すとしても諦めるとしてもいいから全部ちゃんと拾って感じてぐちゃぐちゃに苦しかったり悲しかったり嬉しかったりしながら生きたい。2019年はより素直に正直になりたい。理想の自分よりも体のある自分で。またしばらく時を時期をタイミングを機会を待つそんな時間を過ごすんだろうなって考えている。土にずっといるのは、むずむずする。冬を越えて春はもう目の前に来ていて、夏は待ってる。秋はまだちょっと見えない気配。自然に習って生きていたいな。

shelf「つく、きえる」感想

宙ぶらりんの中から掴めない何かを掴もうと言葉にする、言葉にしてみる。掴めたのか掴めた気がしただけなのか…。言葉が生まれる瞬間を丁寧に掬うように描いていると感じられて。だから今までずっと人が言葉を発するということについてたぶん誰よりこだわってきたshelf、矢野さんの演出と ローラント・シンメルプフェニヒの書く戯曲との相性が良いのかなと思った。

明日が来るかもわからない、5秒後に自分が生きているかもわからないそういう不確かなことだらけの中で生きている。確かなことは、今生きているということだけ。そんな宙ぶらりんで揺れながら人は生きてるんだということを静かにそうだよねって静かに寄り添うように感じさせてもらった。そんな中で出会えたね、うれしいね、そう作者から話しかけられているような、そんな時間だった。

ファンタジーでユーモアがあって掬っても掬っても掬えないものがそこにはあって。ただ静かに誰かの話を聴くっていうことが心地よかった。

粉々に砕けたグラスだったガラスや、地面に落とされた鍵、ベッド、ドア、無機物のものたちがしゃべるところが箇所箇所にあって、そのシーンが好きだった。人間だけじゃないよなって感じられた。私は人間だからついつい人間だけの世界を考えてしまうけれど、地球にいる生き物は当たり前だけれど人間以外の生き物がたくさんいて、私は有機物のひとつに過ぎないのだと、生きてるのはお前だけじゃねえと感じさせられた。

言葉をこういう風に使えたらいいなと感じたのであります。私たちは起こったことを語るけれど、本当の意味で語ることはたぶん誰も出来なくてだけどそれでも語るっていうそこが人間らしくて。人間のいとおしくもかなしい部分だなって。ラストのところで特別そう感じました。言葉というものを獲得してしまった人間の業を感じました。


セロの音色がなんともなんともこれまた言葉に出来ないところを語ってくれているようで、言葉をしゃべり、音楽を奏で、交わったり、疑ったり、沈黙してみたり、恋したり、信じたり、笑ったり、手をつないだり、家を建てたり、冷蔵庫を買いに行ったり、秘密の時間があったり、月曜日の約束をしてみたり。そうやって人間は営みを繰り返しながら生きているだけなのだ。ただ営みがそこにあるだけなのだ。太陽が登ったり、日が沈んだり、雲って水平線がよく見えなかったり、そこに意味を見いだそうとするのはいつも人間で、だけどただ音楽は流れているだけなのだ。ただ星が見えるだけなのだ。ただ人間に星が見えるだけなのだ。宙ぶらりんはあまりに不安定過ぎるから人は何かを信じたり意味を見いだしてみたりするのだろうかとそういうことを考えた。

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