言葉と思考・観たもの感じたもの🎹🌼🌿🌷🐦✨

演劇・映画・音楽を観た感想を書いてます。日記のような思考の記録もあります。

「MVP」桑田佳祐ソロ30周年ベスト・ミュージックビデオ集発売

2018年1月3日(水)桑田佳祐ソロ30周年ベスト・ミュージックビデオ集「MVP」が発売となりました!

ご縁が繋がり私も出演をさせて頂きました2012年発表の「愛しい人へ捧ぐ歌」のミュージックビデオも収録されております。無名の俳優だからこそ出来た役割だと感じていて。素晴らしい曲のミュージックビデオ形成の一部になれたことを誇りに思います。

桑田さんがどういう風に曲を届けようと考え、どういうミュージックビデオが出来上がり、それがどんな風に受け止められたのか。どの曲も、聴く人それぞれの個人的な個人的な思い出と結び付いているのだろうと思います。景色、見ていた風景、空気、におい、町、時代の感触、感じていた気持ち、一緒に聴いていた人の顔…ミュージックを見ながら曲を聴きながら、蘇ってくるものはなんでしょうか。(私の場合は両親が昔からサザンが好きで。幼い頃から車でかかるBGMはいつも桑田さんの声だったので、家族みんなで歌いながら渋滞真っ只中にいたことを思い出しそうです)桑田さんの歴史が詰まったこのMVPがたくさんの方の元へ届きますように。

桑田佳祐ソロ30周年ベスト・ミュージックビデオ集「MVP」発売に寄せて

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個人的に、タイトルになっている「MVP」とはどういうことだろうかと考えてみました。一曲一曲全部がMVPで。聴く人の生活や人生と共にある、自分にとって特別なものになった曲・ミュージックビデオ、それがMVPで。桑田さんのどの曲にも特別な思いを抱く人が必ずいると思うんです。そんなあなたにとってのMVPの曲・ミュージックはなんですか。もっと大きくすると、曲・ミュージックビデオに限らず、あなたのMVPはなんですか?タイトル「MVP」からそんな風に語りかけられているように感じました。

(あなたの特別を教えてちょうだい!あなたの大切を僕に教えて、それが僕の曲だったらいいな~と桑田さんから語りかけられているような気すらしました。妄想入ってますが本気で思いました)

これは私が感じたひとつの受け取り方にすぎないのですが。何が言いたいかと言うと、このタイトル私は好きだ!と言うとことです。色々想像してみたり、誰かと話したり、議論してみたり、一曲一曲からいろんなこと思い出して話したり、ひとり何度も見返したり…そんな風に見てもらえたらこんなに嬉しいことはないんじゃないかと思うのです。見るっきゃない⭐

"感謝" 2017

2017年、残り31日を残すのみですね…
今年を一言で表すと"感謝"の一年でした。

1月のダイアログ・イン・ザ・ダーク、1月生まれの会にて。出会ったみなさんと素敵な時間を過ごすことが出来ました。(当時体調が今より悪くて書くことが出来なかったのですが、本当に私にとって奇跡のような日でありました。不思議なんですが、最後にはみなさんのことを家族のように感じる気持ちが湧いてきて。あの時間に支えられました。ありがとう。また会える時が来ると勝手に思ってます)

書ききれませんが、いろんな人に助けてもらって、支えてもらってやってこれました。全然会えてないけど、心配してくれたり、遠くから応援してくれてたり、見守ってくれていたり…。ずっと寝てるしかなくて、何も出来ない悔しい時間も多かったですが、それ以上に嬉しいことや気付けたことが沢山あった一年でありました。それは病気したおかげだと思うので、感謝をします。ありがとう。

来年は、大好きな人たちに会える一年に出来たらいいなあと思っております。本当に2017年ありがとうございました!!皆様どうぞ良いお年をお迎えください🐶

追記…俳優復帰は2020年を目指して動いています。演劇を私の人生を通した仕事に出来るようがんばります!


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何が語られ、何が語られていないのか。語り得ないものの存在。

曖昧さを出来る限り減らしていく。削っていく。それが突き詰めていくということではないかと考えている。
針の糸通しのように、ここだという針の穴を見つけそこへ己の肉体を通していく。重ねていく。ポイントは肉体(体と声。細かく分けていくと呼吸と重心の位置、動きの質感になるのではないか)をその穴へ通すこと。それは重ねていくことに繋がる。感情なぞはおのずと付いてくるのである。

では針の穴はどこ?どれ?それこそまさに抽象的じゃない。そうめっちゃ抽象的な例えだから、具体的にする。針の穴の具体的なものは戯曲に記されている。ポイントと言ってもいいのかもしれない。とにかくそれは戯曲に書いてある。台詞となっている言葉は表出してくる一つの部分であって、俳優として戯曲を読むときには登場人物(だとして)が何を語り、何を語らないのか。何が語られ、語られていないのか。語り得ないものの存在に着目する必要があるように思う。なぜかと言うと、言葉は語ることが出来ないものを言葉で語ろうとする行為だからだ。だから、俳優が(台詞)言葉をしゃべるとなったとき、しゃべれてはいけないだ。語れてはいけないのだ。語れないけど、語るのだ。それが言葉を語るということなんじゃないかと考える。

何が語られ、何が語られていないのか。
語り得ないものの存在。


これは水俣病展2017で、杉本肇さんと若松英輔さんが対談された際の言葉です。下に貼ったリンクの記事元から抜粋しています。

「語り得ないこと」をテーマに

「患者家族の中で起きた葛藤は書かれていない。本当に大事なことは語られず、記録もされていない」と指摘。写真や資料を展示する水俣病展を例に挙げ、言葉を重ねた。

 「われわれに託されたのは展示に収まらなかった『何か』があることを考え続けること。語られないことに思いを至らせながら水俣病を考えることが大事だ」


何が語られ、何が語られていないのか。
語り得ないものの存在。


若松さんは「本当のことは、語られないまま今も存在しているのではないか」と応じ、「われわれは単純に善悪の構図で分けたがるが、それでは現実が見えなくなる」と強調した。


若松さんは「語り得ないものをどう受け取り、後世に何をどう語り伝えていくか」と問題提起した。その上で「心耳(しんじ)」という言葉を紹介し、「水俣病を考えていくということは、声ならぬ声を心の耳で聞いていくことだ」と会場に呼び掛けた。

杉本さんは母の生き方に一つの答えがあると考える。言葉をたくさん持っていない漁師の母は苦しみ、試行錯誤して魂の入った言葉を見つけた。小さい頃によく『魂ば入れんば』と言われて育てられた。魂の入った言葉の力は違う」


語り得ないことに思いを 杉本肇さんと若松英輔さん対談 水俣病展2017 「心耳」傾け考え続ける
2017/12/10付 西日本新聞朝刊


www.nishinippon.co.jp



この記事を読んで、なんとも言い表し難いのですが、私が一番に考えたのは言葉の発生についてでした。(水俣病展の記事なんだから、水俣病について一番に考えるのが普通でしょうが!と言うお怒りの声もあるかもしれないのですが…)水俣病のことを知っていくこと、抱えている問題は現在にも続いていることを考えること、自分が出来る範囲になってしまいますがしていこうと思います。一番に想像したのは言葉が生まれる瞬間のことでした。どんな空気の中、どういう風に、どんな表情で、どこを見ながら、どんな姿勢で、向きで、どんな声のボリュームで、どういう風にこのお母さん(水俣病を抱えながら年を重ねた女の人)は語ったんだろうかと。

私の演劇に対する興味って、やっぱり言葉なんだなと感じています。言葉が生まれる瞬間に興味があるというか。言葉が生まれる瞬間に立ち会いたいから私は芝居を観に行くのかなとか思います。これ根拠のない確信で、言葉が生まれる瞬間には絶対的な人間の感動があると思うんですよね。生命の誕生って(私は産まれたたことはあるのですが、産んだことはないです)物凄い瞬間、ビッグバン、感動だと思っていて。赤ちゃんの産声とかすごいんですよ。(これはまた別に書きたいことです。)その声、言葉が人間から出る瞬間って物凄い感動があると思っています。そこに立ち会えた感動って生きていける、生きてて良かったって感じる感動だと思う思うんです。私は足を運んで芝居を観に来てくださったお客さんに、そういう感動を感じて帰ってもらいたいなと思っています。そういう俳優でありたいです。

なんか最後宣言になってしまいましたが。

人間が言葉を発する瞬間。戯曲を読む時。語り得ないものの存在。なんで人は劇場に足を運ぶのか、という問いに対する私なりの一つの答えが見つかったのでした。

人@shelf's Workshop

shelfのワークショップに見学に行ってきた。人に触れた一日だった。生きてるだけで素晴らしい。だからみんな生き生きと楽しそうな姿を見るだけで、嬉しくなった。こんな日曜日の良いお天気、稽古場に集まってみんなでやってみて失敗してみたり思わぬ所にたどり着いたり。集中していく時ってたまらん。他人からどんなにかっこわるく見えたって何かを探求していく様は魅力的だと思う。素晴らしい瞬間がたくさんあった。探求心。きもちわるいくらいに、こだわったり突き詰めたり終わりがなかったりそういう作業がしたい。稽古場は実験現場で作戦会議で試行錯誤の場だから。それはワークショップでも同じで。自分の体力・エネルギー測定も出来たし、盛り沢山な一日だった。人に触れた一日だった。また明日からがんばろうと思う。うえい!

写真は行く途中に、あまりに可愛くて思わず写真を撮った赤い実。日差しがぽかぽかで、ときおりそよそよと風が吹いて良い天気で歩くのが気持ち良かった。

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人の声とはなんて様々なものをのせるんでしょう。そして人間はそれをキャッチするのでしょう。もうちょっとこねこねして書きたいと思います。


追記…非常に個人的に。滞在していたのは2時間ちょっとですが、稽古場へ行けたこと、あの場に居られたことは私にとって本当に嬉しいことでした。もう生まれたての赤ちゃんかのように、すべてはきらきらとしていました。自分の現在地も確かめられたので、またゆっくりと進んでいこうと思いました。(shelf演出・代表の矢野靖人)矢野さんがよく「俳優は祝福された生き物だ」ということを(言葉ちょっと違うかもなのですが)言うのですが、昨日のワークショップでの最後、二人ないし一人でイプセンの『ヘッダ・ガブラー』のテキストを使い演じている皆さんの姿を見ていて、その意味がちょっとだけわかったような気がしたのです。今まだ言葉に出来ないんですが、俳優の祝福を感じました。

変容/transformation

変容する瞬間、変容していく様、変容し続けていく姿。観客を変容にもちこむということは、俳優が変容していくということ。観客は俳優を通し感じ見変容していく。

声が出る瞬間には叫びと祈りがあるんじゃないか。言葉が生まれる瞬間には叫びと祈りと願いがあるんじゃないだろうか。その声は言葉は、観客が聴いている。人は変容し続けていて、それは言葉を共にしているのではないだろうか。己の吐いた言葉によって変容し(意図せず言葉に因って)、言葉にすることで己を変容させようとしているのではないか。観客、俳優、変容、言葉。私たちは何を求めて劇場に足を運ぶのだろうか。

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どのように、どのような、変容なのか、はたまた変容しないのか。それは扱う戯曲やテキストにより違う。私は俳優だから俳優として考えるけど、わかっていることはどんな言葉を扱うにせよ、自分を使って(お前の持っているありとあらゆる資源を使い尽くせ)そのテキストなりが生まれる現場を発生させるということ。そのとき何が起きているのかというと、現場を見ている側の人間も同じ体験をしている。(ように思う)観客も同じ体験をしていると仮定すると、すごく難しいのだけど、俳優側に装ってる部分(意図的であれ無意識であれ)、余力、使い尽くせていない部分が微かにでも存在すると観客にも微かに余裕が生まれる。(余裕という言葉が当たっているかというとちょっと違う意味に捉えられてしまうかもしれないのだけど)本当にその言葉がその俳優からまさに現在(イマ)生まれている時(たぶん使い切らないとそこでその言葉は出てこないはずだから)、観客も同じ体験をしているから微かな隙間や余裕はない。と思うのだ。とんでもないことが起きていて、観客は俳優を通して感じ同じ体験をしているから、そこに余裕はない。のではないだろうか。観客の余裕の有無、それが一個基準になってわかるっていうか。上手く言えないのだけれど。自分が観てきたものを思い出しながら考えてみたときに、奇跡って言うとちゃっちくなる気がしちゃうんだけど(そんなことはない)、奇跡のような公演っていうのがいくつかあって。つい先日10/27に観た「トスカ」のあの公演もそうで。ああ、こういう瞬間があるんだよなっていう。その時っていうのは、観客は全神経使って感じ見て聴いていて、俗(?)が入り込む微かな隙間余裕はないんだよね。何が言いたいかっていうと。俳優はテキストが生まれる現場を押さえる、自分を使い尽くしてその現場を発生させる、そこには変容がある、のではないかということ。そしてそこに注力していけば、大きく道を外すことはないんじゃないかということ。やってみてこっちじゃないね、あっちだね。とかになるっていうか。ううむ。全くとっかかりがなくてわからなかったら、演出に相談してもいいし。どう思う?って共演者と話してみてもいいし。これは俳優復帰して迷いの森に入ったら読んでくれ私。

私たちは観客がいて初めて存在できる

自分のことを知っていくことは生きていく上(生活面)でもプロフェッショナルな仕事をする上(仕事面)でも必要なことで、一生続く終わりのない作業だと感じる。

自分のことを知る、というのと
自分にしか興味がないというのは違うよなと。

自分に興味はあって構わないが、比重が極端に片寄って自分(ここで指したいのは演じる俳優)だけになってしまうのは違う。そこに陥ることはよろしくないし、一刻も早く出てくることを要する。

その自分だけにならないカギは、俳優の存在に繋がるのだけれど、俳優が俳優として存在するのは、そこに"観客の視点"があるときである。"観客の視点"があって初めて稽古になるのだと思う。この場に観客はいないけれど、"観客の視点"を想定することで俳優は存在することができ稽古が可能になる。
そして演出家は、チームの舵取りをする船長であり観客の目を持つ人物なわけである。(稽古は来るべき観客との出会い(公演当日)に向けての準備期間であり作戦会議の場であると私は理解している)

そうすると"観客の視点"が欠落している訓練なりワークショップなりは"俳優の訓練"にはならないということだ。
"観客"なくして"俳優"は成立しないのだから。
"観客の視点"なくして"俳優の訓練"なぞあり得ないのだ。

とすると、俳優の訓練をしたいと望むならまず一番始めにすることは、"観客の視点"を想定することである。逆に言えば、"観客の視点"さえキープできていれば、俳優の訓練は可能になる。いつだって、どこにいたってね。

以下、先人の言葉を引用する。

 「ある空間を設定し、その前に観客の眼を想定し、その空間においてどのように身を構えるかと考えた時、我々の「演劇」ははじまっているのである」
別役実

決まっている

"終わる魔法の中にいたこと"

記念写真/BUMP OF CHICKEN


芝居は決まっている、終わる、終わることが決まっている。人は決まっている、死ぬ、死ぬことが決まっている。生命は決まっている、終焉を迎えることが決まっている。どれだけ一秒を細かく出来るだろう。

決まっている、当たり前のこと。


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